蜂須賀正勝
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蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ、大永6年(1526年) - 天正14年5月22日(1586年7月8日))は羽柴秀吉の家臣。蜂須賀正利の子。通称の小六(ころく)の名乗りで著名であるが、のち彦右衛門に改めた。
[編集] 経歴
蜂須賀氏は尾張・海東郡蜂須賀郷を根拠とした国人領主であり、正勝も若年期には川並衆を率いて木曽川の水運業を行うことで利益を得ていたと考えられている。講談や太閤記で言われているような野盗出身ではない。(このことが後の明治帝の諧謔に結びつく。詳しくは蜂須賀茂韶を参照)
一方で、これらの地理的な知識や人脈を用いて織田氏や、斎藤氏にも一時的に仕えたこともあるが、あくまで独立勢力として存在していた。また浪人時代の秀吉と矢矧川(矢作川)の橋で会ったというエピソードが有名であるが、当時の矢矧川は架橋されておらず、これも後世の伝説であるという。一説では、秀吉が織田信長に仕える以前に正勝に仕えていたともいわれている。
後に秀吉に仕えてからは槍働きよりも政務につくことが多く、美濃墨俣城の築城(これもまた伝説である可能性が高い)や、中国遠征での対毛利戦で秀吉をよく補佐し、(所謂大返しで)大活躍する。1585年、秀吉から阿波一国を与えられるが、正勝はこれを子の蜂須賀家政に譲って辞退している。自身は、恩賞などより秀吉の側近として仕えるほうに興味があったかららしい。
秀吉の謀臣としては、正勝よりも後に秀吉に仕えた竹中半兵衛、黒田官兵衛がある。通常ならば先任の正勝が両名の上位に立つはずであるが、正勝は黙って、竹中や黒田が立案した作戦の実行にあたっている。1586年、死去した。法名:福聚寺良巌浄張大居士。