融通念仏宗
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基本教義 |
縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
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経典 |
聖地 |
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ウィキポータル |
融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう、融通念佛宗(ゆうづうねんぶつしゅう)とも)は、浄土教の宗派の一つ。
平安時代末期の永久5年(1117年)5月15日に天台宗の僧侶である聖応大師良忍が大原来迎院にて修行中、阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」を授かり開宗した。大念仏宗(だいねんぶつしゅう)とも言う。
目次 |
[編集] 総本山
大治2年(1127年)に鳥羽上皇の勅願により、宗祖良忍が開創した。坂上田村麻呂の次男で、平安時代にこの地域を開発したといわれる「平野殿」こと坂上広野の私邸内に建てられた修楽寺が前身と伝わる。日本最初の念仏道場である。
[編集] 教義
華厳経・法華経を正依とし、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経を傍依として、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、口称の念仏で浄土に生まれると説く。
[編集] 歴史
良忍が始めた融通念仏は当初は勧進行脚が主で、仏教宗派としての組織を持たず集団運動の中から発展したものであった。大阪の平野の大念仏寺をはじめ、京都の清凉寺や壬生寺などで融通念仏が盛んになり、壬生寺や清凉寺、千本閻魔堂、神泉苑には融通念仏の中興者である円覚上人による大念仏狂言が伝えられている。
南北朝時代の第七世法明が中興とされ、大念仏寺住職を選出する六別時制度を定めたとされる。
戦国時代の頃から宗派としての色合いを帯びはじめたが、大念仏寺の法統が何度も絶え、融通念仏の寺も他宗派の寺院となり勢いは振るわなかった。元禄年間(1688~1703)に、融通念仏再興の祖とされる大念仏寺第46世の融観が融通念仏の復興に努め、「融通円門章」等により教義を明文化し、一宗としての制規を定め、学寮も設けるなかで融通念仏宗として整備されていった。「融通円門章」は漢文体で難解なため、その弊を補うために和文形式で書かれた「融通念仏信解章」も広く普及した。
[編集] 特徴
融通念仏の最大の特徴は、観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事であり、融通念仏宗では、毎朝西方に向かって良忍の説いた十界一念・自他融通の浄土往生を期する念仏(融通念仏)を十唱することなどを日課とする。
専修念仏の先駆であり、より純粋な天台系の浄土教仏教を伝えており、その後の浄土宗や浄土真宗の先行的形態と内容を持つともいえる。