西田税
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西田税(にしだみつぎ、明治34年(1901年)10月3日~昭和12年(1937年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、思想家、国家社会主義者。
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[編集] 年譜
- 1901年10月:現在の鳥取県米子市博労町に仏具店を営む父・西田久米造 母・つねの次男として生まれた。家伝によると、西田家の祖・太平(号は文周)は現在の鳥取県東伯郡北栄町(旧北条町)の出身で、京都での修行後米子に居を構え「ぶしや」の屋号で仏像・位牌を彫るのを家業とした。天保年間(1830年~1844年)のことである。尓来、西田家に男子なく、3代に亘り婿養子を迎えた。鳥取県岩美郡出身の父・久米造(旧姓小竹)もその1人で、当時、鳥取県巡査を拝命していたが、明治20年(1887年)、西田家に入籍し家業を継いだ。
- 啓成尋常小学校、米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)を卒業。
- 1915年9月:広島陸軍地方幼年学校入学。成績優秀により台賜の銀時計を拝受する。
- 1918年7月:広島陸軍地方幼年学校を首席で卒業。9月:陸軍中央幼年学校入学。
- 1919年10月:黒竜会本部を訪れる。玄洋社の総帥頭山満の門をたたく。
- 1920年3月:陸軍中央幼年学校を卒業(成績250名中12番)。朝鮮行きを志願。4月:士官候補生として朝鮮羅南騎兵第二十七連隊付。日蓮の立正安国論を愛誦す 10月:陸軍士官学校入学 急進派の同志宮本進、三好達治、片山茂生、福永憲等と新たな結束を誓う。 帝大教授鹿子木員信の紹介で印度独立の志士ラス・ビハリ・ボースと交遊
- 1922年4月:宮本、片山に付き添われ猶存社で北一輝と会見 5月:帰郷中山陰日日新聞に「純正日本の建設」を発表 6月:北一輝著「日本改造法案大綱」及び朝日平吾手記「斬奸状」を校内で印刷配布 秩父宮改称の奉祝宴に於いて宮より杯を賜る 7月:陸軍士官学校卒業(第34期、騎兵科30名中12番) 猶存社に北一輝を訪ねる 10月:陸軍騎兵少尉に任官。正八位に叙せらる。
- 1924年6月:広島転任の命を拝す 大川周明、安岡正篤との交遊始まる
- 1925年5月:病気(肋膜炎)のため依願予備役に退く
- 1926年:北海道御料林払下問題に関し暴力行為等処罰に関する法律違反罪に問われる
- 1927年2月:保釈出所
- 1930年10月:上告棄却により懲役5年の判決確定し失官
- 1932年1月:衆院選挙で鳥取市出身の由谷義治代議士を応援。2月:血盟団事件 5月:五・一五事件。西田、血盟団員川崎長光に撃たれる。
- 1935年8月:相沢三郎中佐、陸軍軍務局長永田鉄山少将を斬殺 12月:西田と皇道派青年将校、相沢公判支援 新聞「大眼目」を発行、国体明徴と粛軍と維新は三位一体であると強調し相沢中佐の一挙は陸軍内部の毒虫を誅罰した快挙であると主張
- 1936年2月:二・二六事件。3月:角田猛男男爵邸で逮捕される
- 1937年8月19日:銃殺刑に処せられる。享年36。墓所は米子市法城寺
- 1986年9月:税を慰霊する五輪塔が法城寺に建立される
[編集] 思想
陸軍中央幼年学校在校中より、満蒙問題、大亜細亜主義問題に関心を持っていた。陸軍士官学校本科在校中、国家改造論者の北一輝が著した日本改造法案大綱を閲読し、満川亀太郎や北一輝の指導の影響を受け、国家革新の必要を痛感するようになった。
1925年6月に軍職を退き、上京して大川周明、満川亀太郎、安岡正篤等とともに行地社発行の機関紙「日本」の編集に参加した。又、大川周明と共に、主として陸海軍青年将校に対し、日本改造法案大綱を指導原理とする国家革新思想の普及に努力した。
その後、大川周明と対立し、行地社を脱退。北一輝の指導を受け、1926年4月、日本改造法案大網の版権を委譲され、これを出版した。
在郷軍人の労働者無料宿泊所である星光同盟を経営し、右翼労働運動に進出したが、北海道御料林払下問題の暴力事件により失官したため、中断。1927年(昭和2年)2月、愛国運動のための結社士林荘を結成し、同年7月には海軍将校藤井斉と共に天劔党規約を策定したが、天劔党は結党されなかった。
天劔党の規約策定の頃から、国家革新運動の政治的進出に志し、日本主義に立脚した大衆政党樹立の必要を痛感した。1929年秋、中谷武世、津久井竜雄等と日本国民党を組織し、その統制委員長となったが、その後党規紊乱の責任をとって日本国民党から脱退した。
[編集] ファシズム抬頭期
1931年(昭和6年)の十月事件には、陸海軍の一部青年将校同志を代表し、十月事件の幹部であった陸軍砲兵中佐橋本欣五郎との連絡折衝の任に当ったが、その計画に反対し、1932年、五・一五事件には陸軍側青年将校の参加を牽制阻止したため、裏切者として狙撃され、瀕死の重傷を負ったが、北一輝の看護により一命を取り留めた。
この事件を機縁として、日本改造法案大綱を支持していた陸軍部内同士青年将校の菅波三郎、末松太平、大岸頼好、大蔵栄一等との接触。交友関係が緊密となり、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、香田清貞、栗原安秀等一部青年将校とも親交を深めた。
こうして、西田は全国同志の革新運動を指導すべき中心機関の必要を痛感し、1932年秋に、杉田省吾、渋川善助、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成した。こうして、軍部民間を通し日本改造法案大網を信奉する革新運動の指導者となった。
西田は、近代革命の中核は軍部と民間の団結によってつくられる軍隊の活動なくして国家の革新は実現しないとの堅い信念に基き、青年将校に対し、日本改造法案大網を基調とする革新理論を説いた。また、革新運動における将校と軍隊の使命と心得について研究作業を指示し、上下一貫、左右一体、拳軍一体といった将校団運動なる標語を教示し、この方針に基いて軍内における勢力拡大を図った。
1931年以降、三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件等、軍内外を通した国家革新運動を見た青年将校たちの思想は、西田税の影響を受けて尖鋭となり、1933年頃から一部の同志青年将校において政党総裁の暗殺を内容としたいわゆる戦車隊襲撃計画が計画されたが、西田税は朝議総まらず国論が動揺した時が革新断行の最後の決定時期であると誠告指導し、その軽挙妄動を抑制した。
1934年11月、村中孝次、磯部浅一等が反乱陰謀事件によって検挙されたことにより、翌1935年4月、討幕に万進すべしとの指令を各地の同士に発した。
1936年2月初旬、青年将校等の一部同志が決起の意思を固めたのを察知し、村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀等と会い、彼らが青年将校を糾合して二・二六事件の実行計画を進めているのを知る。その時、当時の国内情勢においてはまだ革新断行の最後の決定時期に到達していないと判断し、その抑止説得に努めた。しかし、西田税は、決起将校たちの決意が揺るがず、説得が不可能であることを知り、決起を承認し、その希望を受けいれる以外に無いと判断した。こうして二・二六事件に参加し、これを指導した。
事件直後の1936年3月4日、反乱の主動者として陸軍刑法第25条第1号違反(叛乱罪の首魁)の容疑で逮捕。青年将校のクーデターに対して、昭和天皇がひどくお怒りの様子であることを知り「国民の天皇」を持論としていた西田は悲痛な絶望感にとらわれた。「俺は殺されるとき、天皇陛下万歳は言わないで、黙って死ぬるよ。」という税の言葉が、面会に行った姉・茂子につたえられている。1937年8月14日、東京陸軍軍法会議の判決で死刑を宣告され、8月19日に処刑(銃殺)された。享年36。墓所は鳥取県米子市の法城寺。
[編集] 家族 親族
- 父 西田久米造(鳥取県 小竹哲次郎四男)
- 母 つね(鳥取県 西田万次郎長女)
- 兄 英文
- 妻 はつ(東京 佐藤新兵衛長女)
[編集] 系譜
- 西田氏 太平(号は文周)は現在の鳥取県東伯郡北栄町(旧北条町)出身であり25歳の時上京して大仏師西田竜敬に師事し、師の姓西田を継いだ。税は先祖について自伝の中で「もと我家が現姓を称て世に立てるは今より程遠くもなき幕末の世にして余を以て僅かに第五代とする。始祖文周以前の事は明かでない。唯々遠祖は伯耆羽衣石城主南条虎熊の家臣穴谷八郎なりしと伝え聞くのみである。」と書いている。
太平…左衛門…万次郎…久米造━┳由喜世 (判屋)(岡本)(小竹)┣英文 ┣茂子 ┣税 ┣弼 ┣博 ┗正尚
[編集] 参考文献
- 『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』 米子市教育委員会 1999年
[編集] 関連項目
[編集] 資料
- 因伯時報(昭和12年8月16日付)
- 判決の知らせを聞いた実母つねの心境
『税が大変世間を騒がせて相すみませんでした。税は少年時代から全然変わった子供で絶対に無口で必要以上の口をきかず啓成校から米中に進み広島幼年学校に入り陸士に進んで騎兵少尉となりましたがどうしたものか突然兵籍を脱してしまひ大正十三年か大正十四年四月三日の夜郷里を発って東京へ行ったのでした。思へばこの時既に税の心中には大きな変革が起こってゐたのでせう。何故兵籍を脱したか本人以外は誰も知らずにゐたのでした。税が今日のやうになったのは長兄英文の感化によるものと思ひます。英文は米中卒業後病のため充分成績をあげることができなかったのを悲しみ税だけは自分の代わりに思ひ通りに教育させてくれといひ一切英文が独断で幼年学校にも入れたものでした。その英文は二十一で死亡したのですがその時の遺書に「自分は病気で斃れたが税はきっと天皇の御役に立つでせう」とありました。税には昨年十月面会したが委しいことは語ってくれずいかなることがあっても決して驚いてはならぬといったので私もお前の気持ちはよく知っている世間がいかに白眼視しても母は天寿を完すると申し渡しておきました』
『本人は兄の遺志を体して御国のためにやったでせうが税のしたことは果して国家のためだったでせうか。税の心中を思ふと私の心も乱れ勝ちです』と語り終わった。