塩見孝也
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塩見 孝也(しおみ たかや、1941年5月22日- )は、新左翼活動家。元赤軍派議長、最高指導者。広島県尾道市出身。
[編集] 経歴
1962年、京大文学部入学、在学中から「ブント」の活動家となり、京都府学連書記長、社学同書記長を経て1969年、ブント内の対立によりいわゆる関西ブントを中心に「共産主義者同盟赤軍派」を結成、議長に就任した。メンバーは京大、同志社大、立命館大を中心に400人で、軍事委員長は大阪市大の田宮高麿だった。「これまでの闘争方針では70年闘争を闘いきれない。受動的な階級闘争論では展望が開けず、能動的な攻撃型の階級闘争こそが必要である」と前段階武装蜂起を掲げた。同年秋、大阪、東京で交番・パトカーなどを襲撃した大阪戦争、東京戦争等を指揮するが、11月に「大菩薩峠事件」で主要幹部を含む53人が逮捕され大きな打撃を受けた。このため「一国内の闘争には限界がある。労働者国家(キューバ)を根拠地とし、そこで軍事訓練を行った革命軍を各地に送って、武装蜂起を図り「世界共産主義革命」を実現すべき」という「国際根拠地理論」を提唱した。
1970年、「フェニックス作戦」と名づけたハイジャックを計画。下見を重ね具体的な計画を作成。実行部隊のメンバーを決定し同年3月後半の実施を決定したが、寸前の3月15日警察に逮捕された。塩見の逮捕を知った実行部隊は、善後策を協議し既定方針どおりハイジャックを決行。3月31日、田宮高麿をリーダーとする9名が、羽田空港で日本航空機・よど号をハイジャックし北朝鮮に亡命した(よど号ハイジャック事件)。
塩見は爆発物取締法、同事件の共謀共同正犯として破防法などで起訴。1980年、懲役18年の判決が出され、1982年刑が確定。府中刑務所に収監され、結局19年9ヶ月の獄中生活を送り、1989年12月出所。現在、ぱとり・自主日本の会を主宰。定期的に都内で集会を開くなどの活動を行っている。出所後は何度も渡朝し田宮(1995年死亡)らと再会。また近年、民族主義を唱え一水会らと共に「国の日集会」(毎年9月2日開催)を開いたり、実行犯が日本人拉致に関与しているかのような発言を行い、物議を醸している。
だが先に挙げた民族主義に関しては彼なりの過去の内ゲバに対する反省点と愛郷心から来ており同じ革命を目指す者同士なら左右問う事無く解決すべきであるという理念が伺える。
ちなみに塩見自身は、新宿騒擾事件については刑事責任を問われうる範囲内であるも、ハイジャックについては無罪であるとの主張を、現在においても唱えている。
[編集] 外部リンク
[編集] 著書・参考文献
- いま語っておくべきこと 革命的左翼運動の総括 /川島豪、塩見孝也著 新泉社
- 封建社会主義と現代—塩見孝也獄中論文集 /自著 新泉社
- 「リハビリ」終了宣言—元赤軍派議長の獄中二十年とその後の六年半 /自著 紫翠会出版
- さらば赤軍派 私の幸福論 /自著 オークラ出版
- 赤軍派始末記 元議長が語る40年 /自著 彩流社
- 監獄記—厳正独房から日本を変えようとした、獄中20年。 /自著 オークラ出版
- よど号と拉致 /NHK報道局 NHK出版
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