越後府
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越後府(えちごふ)は、明治初期に越後国に置かれた府。この項目では、前身の新潟裁判所(にいがたさいばんしょ)、後身の新潟府(にいがたふ)および水原県(すいばらけん)についても述べる。なお、下記の「沿革」における「新潟県(第2次)」以降については「新潟県」の項を参照せよ。
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[編集] 沿革
現在の新潟県は、幕末に幕府直轄領(天領)となり安政条約で開港場に指定された新潟を抱え、また戊辰戦争で新政府軍に抵抗した越後長岡藩や会津藩、伊勢桑名藩などが領地を持ち主戦場の1つとなったことから、その成立までの経過は他の府県に比べても非常に複雑なものであった。以下、明治9年(1876年)の現新潟県の成立までの沿革の概略を記す。
- 慶応3年12月9日(グレゴリオ暦1868年1月3日) - 王政復古:江戸幕府廃止、新政府樹立
- 慶応4年(明治元年)4月19日(1868年5月11日) - 新潟裁判所設置
- 慶応4年(明治元年)閏4月21日(1868年6月11日) - 政体書発布:政府直轄地に府県を設置することとする。
- 慶応4年(明治元年)5月23日(1868年7月12日) - 新潟裁判所を廃し、越後府(第1次)を設置。
- 慶応4年(明治元年)7月27日(1868年9月13日) - 柏崎県(第1次)を設置。
- 明治元年9月21日(1868年11月5日) - 越後府を新潟府と改称。
- 明治元年11月5日(1868年12月18日) - 柏崎県を廃して新潟府に合併(実行されず)、および佐渡県を当分の間新潟府の管轄とする。
- 明治2年2月8日(1869年3月20日)- 新潟府を置いたまま、越後府(第2次)を設置。
- 明治2年2月22日(1869年4月3日) - 新潟府を新潟県(第1次)と改称。柏崎県を越後府へ合併(再度布達)、佐渡県は越後府の当分管轄とする。
- 明治2年7月17日(1869年8月18日) - 「府」の呼称を京都府・東京府・大阪府に限定する太政官布告公布。
- 明治2年7月23日(1869年8月24日) - 越後府による佐渡県の管轄解除。
- 明治2年7月27日(1869年8月28日) - 越後府および新潟県を廃止。両府県を合併して水原県を設置。
- 明治2年8月25日(1869年9月30日) - 柏崎県(第2次)が分立。
- 明治3年3月7日(1870年4月7日) - 水原県を廃し、新潟県(第2次)を設置。
- 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県:新潟県・柏崎県・佐渡県はそのまま存続。越後国内の各藩が県となる。
- 明治4年11月20日(1871年12月31日) - 北陸・甲信越における府県統合:越後北部(下越2郡)の新潟県(第3次)、越後南部(上中越5郡)の柏崎県(第3次)、佐渡の相川県に統合される。
- 明治6年(1873年)6月10日 - 柏崎県を廃し、新潟県に編入。
- 明治9年(1876年)4月18日 - 相川県を廃し、新潟県に編入。
[編集] 新潟裁判所
慶応3年12月9日(グレゴリオ暦1868年1月3日、以下同じ)の王政復古のクーデタで成立した明治新政府は、廃止された旧幕府直轄領(天領)などを当分の間近隣諸藩に預けて管理させていたが、翌慶応4年(明治元年、1869年)には政府が直接支配する方針に改めて、1月(旧暦)以降、大阪、兵庫、長崎、京都などに順次裁判所を設置していった。この「裁判所」は、現在の司法機関としての裁判所ではなく、管轄地域の民政一般を掌る地方行政機関であった。
新潟裁判所は、同年4月29日(1868年5月21日)に設置された。元は越後長岡藩領であったものを天保14年(1843年)に上知して幕府直轄とした新潟町に設置された新潟奉行所に代わるものとして設置されたと理解される。裁判所の長官である総督には、当時新政府軍の北陸道先鋒副総督兼鎮撫使であった四条隆平が任命されたが、四条の肩書きに明らかなようにこの時点で越後国内の多くは新政府軍の掌握下には入っておらず、四条自身も江戸に滞陣していた。したがって現地には裁判所の庁舎や組織があるわけでもなく、「新潟裁判所」および「同総督」とは実際には名目的なものに過ぎなかった。
なお、四条は新潟裁判所総督と同時に北陸道鎮撫副総督に任命されている。
[編集] 第1次越後府
慶応4年(明治元年)閏4月21日(1868年6月11日)、政体書が発布され、全国の政府直轄地には府県が設置されることとなった。これにより、各地の裁判所は府または県に改変された。
新潟裁判所は同年5月23日(7月12日)に廃止され、代わって越後府が設置された。従前の新潟裁判所(旧新潟奉行所)に加えて、水原(すいばら、阿賀野市)、出雲崎、川浦(上越市、旧中頸城郡三和村)の各代官が支配した越後国内の旧幕府直轄地も管轄するものとされた。中心都市による「新潟府」ではなく、国名によって「越後府」と称したのは、このことによると考えられる。
知事の任命はなく、それまでの新潟裁判所総裁兼北陸道鎮撫副総督であった四条隆平が引き続きその職務を代行した。府の臨時的な次官である権判事には福井藩士の南部彦助、津和野藩士の渡辺儀右衛門らが任命された。
この間に新政府軍は越後国南部の上越地方(頸城地方)を掌握下に置き、越後府は当初、四条の滞陣する高田(上越市)にその組織を置いて掌握した地域の治安維持や民政に当たった。実際には四条が副総督を兼ねていた軍政機関としての総督府と一体化して活動したと考えられている。
新政府軍の掌握地域の拡大に伴い、6月1日(7月20日)に知事代行の四条は新たに支配下に入った柏崎に出張し、直ちに南部権判事らを柏崎に置いて刈羽・魚沼地方の旧幕府領や桑名藩・会津藩領の人心掌握に当たらせた。南部権判事らの柏崎移転をもって、越後府が柏崎に移転したと理解することもある。
7月27日(9月13日)、柏崎県(第1次)が設置され、8月5日(9月20日)にその管轄区域が越後国南半の頸城・刈羽・魚沼3郡内の旧幕府直轄地および新政府の没収地などとされた。これにより、越後府の管轄地域は越後国北半の三島・古志・蒲原・岩船4郡となった(布達は9月3日[10月18日]付)。ただし、当初両府県の知事人事に混乱があり、相互の管轄分担も不明確であって、事実上柏崎県は越後府の管轄下にあったとも言われる。
[編集] 新潟府
7月29日(9月15日)に新政府軍が長岡城や新潟町を占領、8月(旧暦)には越後全域が新政府軍の支配下に入って、この地域における戊辰戦争(北越戦争)は終結した。
9月21日(11月5日)に越後府は新潟府と改称された。柏崎県の設置により「府」の管轄区域が越後北半の4郡に限られるとともに、11月19日(1869年1月1日)の新潟開港を控えて、府庁を新潟町に置いて内政と外交を一括して掌握する方針が定められたことによるものと考えられている。ただし、改称後も「新潟府」と「越後府」は混同して用いられ、現地では「越後府」の名称の方が一般的であったらしい。
11月2日(12月15日)、柏崎で新潟府(越後府)知事であった四条隆平と柏崎県知事久我維麿との間の事務引継ぎが完了して柏崎県が実質的に分離し、11月7日(12月20日)、四条とともに新潟府の本庁は長岡に移転した。
この間の越後・佐渡両国に対する政府の方針は一定せず、10月28日(12月11日)には四条新潟府知事を罷免して、当時総督府本営参謀として新発田に滞在していた西園寺公望を新たな知事に任命した。11月5日(12月18日)には久我柏崎県知事を罷免、同県を廃して新潟府へ合併すること、また佐渡県(知事:井上馨)も新潟府の当分管轄とする布達が行われている。
このような政府の方針に対して現地では反発が強く、柏崎県の廃止については翌明治2年(1869年)2月22日(4月3日)に同様の布達が出されていることから、実際には廃止が実行されず存続していたと考えられている。また、府知事に任命された西園寺や同府判事(次官)に任命された前原一誠らも新潟へ赴任せず、新潟に府の本庁が開かれることはなかった。混乱は、前原とは別に判事に任命された楠田十左衛門(英世)が新潟に着任する明治2年1月16日(1869年2月26日)まで続き、同日ようやく新潟に本庁が開かれるに至った。
ところがそれから間もない1月20日(3月2日)未明、信濃川の分水問題をめぐる騒動が新潟町で発生し(関谷掘割騒動)、他の管轄地域から孤立した新潟町で越後全域の直轄地を支配することは困難であるという認識を政府が持つようになった。
[編集] 第2次越後府と第1次新潟県
そこで政府は新潟府を存続したまま、これとは別に同年2月8日(3月20日)、越後国内の直轄地の統一的支配を目的に再度越後府を設置して、府庁を水原の旧幕府代官陣屋に置いた。知事には新政府軍の会津征討越後口総督府参謀であった壬生基修が任命された。
2月22日(4月3日)には柏崎県の廃止・合併が再度布達され、佐渡県を越後府が当分管轄することが改めて布達された。同日、新潟府は新潟県(第1次)と改称され、管轄地を新潟町に限定し、その町政と開港場における外交のみを管掌するものとされた。
こうして、越後・佐渡両国の政府直轄地を管轄する越後府と、新潟町政および外交を管轄する新潟県とが並立する体制となったが、このような内政と外交の分離政策には反対の意見も強かった。また、「開港場十里四方」とされた外国人遊歩区域が新潟町に限定された新潟府(新潟県)の管轄区域を超えることに対して、府の管轄区域の拡大と機能強化を訴えていた現地の役人も批判的であった。さらに、越後全域と新潟町とを統一して統治するべきであるという者の間にも、本庁を新潟町に置くべきか、水原の本庁に統合すべきかで意見の対立があった。
[編集] 水原県
こうした中で政府は、内政と外交の統一案を受け入れて、明治2年7月27日(1869年9月3日)、越後府と新潟県を廃止して両府県を統合した水原県を設置した。「県」と称したのは7月17日(8月24日)に「府」を京都府・東京府・大阪府に限定するとした太政官布告が公布されたことに対応するものである。県庁は水原に置かれたが、新潟には分局が置かれ、両者間の連絡は芳しくなく、依然として分離状態は続いた。なお、これに先立つ7月23日に越後府による佐渡県の管轄が解除され、佐渡県は独立を回復している。
ともかく一旦は越後全域の政府直轄地に対する支配が水原県に統合されたが、8月25日(9月30日)には柏崎県(第2次)が設置されて上越・中越の5郡(頸城・刈羽・魚沼・三島・古志)の政府直轄地を管轄するものとされた。その結果、水原県は前年の越後府(新潟府)・柏崎県併立時よりもさらに狭い下越2郡(蒲原・岩船)の政府直轄地(新潟町を含む)のみを管轄するものとなった。
この間、明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還を受けて各藩の藩主が政府によって知藩事(藩知事)に任命されて府藩県三治制が成立した。越後国内には清崎藩(旧糸魚川藩)、高田藩、椎谷藩、与板藩、長岡藩、峰岡藩(旧三根山藩)、村松藩、新発田藩、三日市藩、黒川藩、村上藩の各藩が藩庁を置いていた。これに上中越5郡の政府直轄地を管轄する柏崎県、下越2郡の政府直轄地を管轄する水原県、および佐渡全島を政府直轄とする佐渡県の3県が加わって、越佐両国をこれらの藩県で分割支配する体制ができあがった(なお、蒲原郡のうちの旧会津藩領は若松県の管轄となっている)。
しかし、開港場である新潟を抱えた水原県では、外交問題処理の難しさから新潟町を管轄する新潟局の機能強化に迫られ本庁を水原に置く体制が維持できなくなった。明治2年末から3年初め(1870年)にかけて知事らが相次いで水原から新潟に移り、事実上新潟が県の中心として機能するようになった。この結果、明治3年3月7日(4月7日)に水原県は廃止されて、新潟町に本庁を置く新潟県(第2次)が設置された。
[編集] 歴代総督・知事
[編集] 新潟裁判所総督
- 四条隆平 - 明治元年4月29日(グレゴリオ暦1868年5月21日、以下同じ)任総督
[編集] 越後府(第1次)知事
- (知事任命なし) - 前新潟裁判所総督・四条隆平が当面代行
- 岩松俊純 - 明治元年7月4日(1868年8月21日)任知事(実際には赴任せず)
- 四条隆平
[編集] 新潟府知事
- 四条隆平 - 越後府知事から継続
- 西園寺公望 - 明治元年10月28日(1868年12月11日)任知事(実際には赴任せず)
[編集] 越後府(第2次)知事
- 壬生基修 - 明治2年2月8日(1869年3月20日)任知事
[編集] 新潟県(第1次)知事
- 楠田英世 - 明治2年2月22日(1869年4月3日)任知事
[編集] 水原県知事
- 壬生基修 - 越後府知事から継続
- 三条西公允 - 明治2年10月3日(1869年11月6日)任知事
[編集] 参考図書
- 『新潟県史』新潟県,1987年