今川氏真
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今川 氏真(いまがわ うじざね)は、駿河の戦国大名。駿河今川氏10代当主で、大名としての今川家の最後の当主である。
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文7年(1538年) | |||
死没 | 慶長19年12月28日(1615年1月27日) | |||
改名 | 氏真、宗誾 | |||
別名 | 五郎(幼名)。彦五郎(通称)。仙巖斎 | |||
官位 | 従四位下、上総介。刑部大輔 | |||
氏族 | 清和源氏足利氏流、今川氏 | |||
父母 | 父:今川義元、母:武田信虎の娘・定恵院 | |||
兄弟 | 今川氏真、嶺松院 | |||
妻 | 正室:北条氏康の娘・早川殿 | |||
子 | 今川範以、品川高久 |
目次 |
[編集] 略歴
父・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれたため、家督を継いで今川家を支えようとするが、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、大名としての今川家は滅亡した。
その後、各地を流浪し、最終的には徳川家康の庇護を受けた。江戸幕府のもとでは高家として生き延びた。
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
天文7年(1538年)、今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)に北条氏康の長女・蔵春院早川殿と結婚し、三国同盟の成立に寄与した。
永禄元年(1558年)、父が隠居したため、家督を譲られて当主になったという説があるが、その後も父・義元は政治・軍事の主導権を掌握していたため、恐らくは形式的な家督相続であったものと思われる。永禄3年(1560年)、父・義元の上洛開始寸前に上総介に任官された。そして父・義元が上洛するために侵攻した尾張において織田信長に桶狭間で討たれたため、実質的に家督を相続して今川家の第10代当主となった。
[編集] 相次ぐ離反
しかし義元時代に従属していた松平氏が、永禄5年(1562年)に織田信長と清洲同盟を結び、永禄6年(1563年)には松平家当主・松平元康(今川義元より元の字を与えられていた)が徳川家康へと改名し、事実上今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにした。これに対して氏真は家康が三河一向一揆で多くの家臣団に離反されたことにつけ込んで三河に出兵したが、家康は一揆を鎮圧して今川軍も撃退されてしまった。これにより氏真は三河を失った。
さらに遠江曳馬城主・飯尾連竜が家康と内通するなど、遠江においても今川家から離反する家臣団の動きが活発になる。このため、氏真は重臣の朝比奈泰朝に命じて謀反の兆しがあった井伊直盛(ただし直盛に関しては氏真の一方的な粛清ともいわれる)や飯尾連竜らを誅殺してゆく。しかしこれは、逆にさらなる今川家の勢力衰退につながった。さらに楽市や徳政、役の免除などの政策によって領国の建て直しを計ろうとしたが、国人の離反を止めることはできなかった。
また氏真自身が家臣の三浦義政を寵愛して政務を任せっきりにして、次第に政務から遠ざかって遊興に耽るようになったため、駿河内部でも家臣の離反を招くことになる。
さらに父・義元の戦死を契機として今川氏の衰退を見た甲斐の武田信玄が、今川氏との同盟破棄と駿河への南進を画策する。そして氏真の妹婿である武田義信を永禄8年(1565年)に反逆の罪で幽閉して廃嫡、正室の嶺松院を強制的に離縁させた。これによって武田氏は今川氏との婚姻同盟を一方的に破棄することとなるなど、外交的にも不利な立場に陥った。
[編集] 滅亡
このような武田信玄の裏切り行為に対し、氏真は越後の上杉謙信と盟約を交わし、相模の北条氏康とともに、甲斐への塩留を行うことで報復したが、信玄は織田信長や徳川家康と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄は徳川家康と今川領分割を条件にして同盟を結び、駿河への侵攻を開始した。これに対して氏真は迎撃しようとしたが、瀬名信輝や葛山氏元、朝比奈政貞、三浦義鏡など駿河の有力国人が21人も武田信玄に通じて裏切ったため、駿府は短期間で占領され、氏真は遠江掛川城へ逃れた。しかし、遠江においても徳川家康の侵攻によって大半が制圧され、12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲され、氏真は窮地に立たされた。掛川城主の朝比奈泰朝をはじめとした家臣の奮闘で半年近くの籠城戦となったが、ついに永禄12年(1569年)、氏真は家臣達の助命と引き換えに和睦開城した。この時に今川氏真、徳川家康、北条氏康の間で、武田信玄の勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏は滅びた(統治権の喪失)と解釈されている。
[編集] その後
氏真は掛川城の開城後は妻の実家北条氏を頼って相模に逃れた。永禄12年(1569年)5月23日に北条氏との同盟強化のため、北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とする。また、上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。この盟約は武田氏への共闘を目的とするものであった。
しかし、元亀2年(1571年)に北条氏康が死ぬと、その嫡男・氏政は方針を転換し武田氏と和睦した。これにより氏真は相模を離れ、武田信玄と対立し始めたため駿河侵攻の大義名分を得たい徳川家康の庇護下に入った。これは掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたとも見られる。そして、徳川家康の同盟者にして父の仇でもある織田信長とも京都の相国寺で会見し、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも従軍している。
一時は徳川家康が武田勝頼と争う拠点の1つ、遠江牧野城(元は諏訪原城、静岡県島田市)を任せられたともいうが、結局駿河復帰を諦め(解任されたとも言われる)、京に上って定住した。のち、剃髪して宗誾(そうぎん)と号する。その後は家康の援助を受けながら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、連歌の会などに参加していたことが、親交のあった山科言経の日記『言経卿記』から伺える。
[編集] 晩年
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、嫡孫・範英と、二男・品川高久(家康より「今川の姓は宗家に限る」との沙汰上があり、今川宗家以外は「品川」を名乗った)と共に徳川秀忠に出仕して江戸幕府の旗本に列したため、江戸に移住した(嫡男の今川範以は若くして病死していた)。
慶長19年(1614年)、江戸品川の品川高久の屋敷で死去。享年77。
葬儀は氏真の弟の一月長得が萬昌院で行い、萬昌院に葬られたが、後に妻・蔵春院早河殿の墓とともに、東京都杉並区今川町の宝珠山観泉寺に移された。法名:傳岩院殿量山泰栄大居士
[編集] 人物
- 和歌
- 権大納言冷泉為和らより学んだと言われ、現在も1000首を超える歌が遺る。また後水尾天皇選の集外三十六歌仙にも名を連ねている。北条五代記には、氏真が後北条家から去るときに残した歌が記されている。
- 蹴鞠
- 飛鳥井流宗家の飛鳥井雅綱より手ほどきを受けたとされる。
- 剣術
- 塚原卜伝に新当流を学んだという。また、今川流剣術では氏真が開祖と伝えている。
- 江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼしたように描かれていることが多いが、実際には公家との交流によって政治的影響力を強める目的や、神道と関わる行事を行うことによる権力誇示の要素もあり、これだけをもって「文弱」の根拠とするのは適切とはいえない。また人物像についても描かれた作品によって、意志薄弱で頼りないもの、剛胆でさっぱりしたもの、思慮深く情あふれるものなど様々で一致を見ない。
- 戦国大名としての氏真は、奸臣の三浦義政を重用して次第に政務から遠ざかったり、疑心暗鬼に陥って重臣に謀反の罪を着せて粛清するなどしたことから、非難されることが多い。しかし、和歌・連歌・蹴鞠に通じた戦国時代でも特に秀でた文化人であったことは事実で、文化人氏真としての評価は大変高いのは事実である。
- 正室である北条氏康の長女・蔵春院早川殿とはとても仲がよく、氏真が戦国大名の地位から没落した後も、二人は離縁することなく、生涯連れ添った。ちなみに早川殿は、氏真に先立つ1年前の慶長18年(1613年)に亡くなっている。このことがよほど衝撃だったようで、翌年に後を追うように氏真も亡くなっている。
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[編集] 参考文献
赤木 駿介『天下を汝に―戦国外交の雄・今川氏真』新潮社