郭嘉
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郭嘉(かくか 170年 - 207年)は中国後漢末期の軍師。字は奉孝。郭奕の父、郭深・郭敞の祖父、郭猟の高祖父。
郭嘉は若い頃から将来を見通す洞察力に優れていた。二十歳になると名前や経歴を隠して、ひそかに英傑たちと交際を結び、俗世間から離れて暮らしていた。郭嘉は世に出るに当たって、まず袁紹のもとを訪れたが仕官せずに去っていった。その後、戯志才の後継者として荀彧によって曹操に推挙された。郭嘉は曹操に召しだされて天下のことを議論した。曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と高く評価し、一方郭嘉も退出するなり「まことにわが主君だ」と言って喜んだ。そして曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、数々の助言を行った。
呂布討伐では荀攸とともに、退却しようとする曹操に追撃を進言し、呂布を捕らえた。曹操が袁紹と官渡で対峙していると、孫策が許都を急襲する構えを見せ、人々は戦々恐々となったが、郭嘉は孫策が暗殺されるのを予測していた。また、袁紹の死後、一気に袁家を滅ぼそうという諸将に対し、袁尚と袁譚に内紛を起こさせてから滅ぼす策を進言し、袁家を自壊させた。
曹操が袁尚討伐と烏丸征伐の遠征計画をうちだした時、部下の多くは劉表が劉備を使って許都を襲わせるのではないかと危惧していた。しかし郭嘉は、劉表は自分が劉備を使いこなす器でない事を自覚しているので重用する事は出来ず、安心して遠征する事ができるとして懸念を打ち払った。曹操は遠征に出発し、易県に到達すると、郭嘉がひとつの策を進言した。「兵は神速を貴びます。いま千里先の敵を襲撃しておりますゆえ輜重は多く、有利な地へたどり着くことは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、軽騎兵を(昼夜)兼行させて突出し、彼らの不意を衝くべきです。」曹操はこの策を採用し、烏丸族を打ち滅ぼし、袁尚らは遼東へ落ちのびていった。
郭嘉は物事に深く通じていて、的確な見通しを持っていたので、曹操から「奉孝だけが、わしの真意を理解している」と絶大な信頼を寄せられていた。 三十八歳の時、柳城から帰還すると、風土病を患い、その後病死した。曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平のあかつきには、後事を彼に託すつもりだったのに・・・」と嘆いた。さらに天子に上奏し、八百戸を加増し、合わせて千戸とした。貞侯と謚された。208年の赤壁の戦いの敗戦の際、曹操が「奉孝ありせば・・・」と言ったように、もし郭嘉が生きていれば赤壁の敗北はなかったとも言われた。
郭嘉は神算鬼謀の天才軍略家として名を馳せる一方、品行方正な人物とは言い難かった。こうした放埒な私生活を軍議の席で陳羣に非難されたが、「ここは公の場であって、私生活を論議する場ではない」とあしらい、意に介さなかった(郭嘉は軍祭酒の官職に就いており、法官に相当する立場であった。法律を監督すべき立場の人物が素行不良では示しがつかない、ということで、陳羣は非難したものであろう)。主君である曹操は、郭嘉の天才的な軍事洞察力を愛する一方、公正で人物鑑定に優れた陳羣も重用していた。彼の人材好きを物語るエピソードといえよう。 郭嘉自身は劉曄を推挙している。