赤壁の戦い
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赤壁の戦い(せきへきのたたかい)は、208年の中国三国時代に魏の曹操の軍(15万)と蜀の劉備・呉の孫権連合軍(推定5・6万)の間で長江の赤壁(現在の湖北省)で起きた戦い。連合軍側の勝利で終わり、曹操の天下統一の野望は頓挫する。現在赤壁と呼ばれている場所とは位置が異なるようである。北宋の詩人蘇軾は、この間違った地で「赤壁賦」を作ってしまったらしい。
[編集] 史実における赤壁
208年7月、荊州の牧であった劉表を攻める為、曹操は兵を率いて荊州へ南下を始める。八月、劉表が死ぬと策略により劉表の跡を継いだ次男・劉琮は9月に降伏し荊州を曹操に譲り渡してしまう。孤立した劉備は、長江づたいに南下し、長坂で追いつかれるが、何とか難を逃れ夏口へ到達する。そこで劉表の長男・劉琦と合流し、孫権の命で荊州の動向を探りに来た魯粛と落ち合う。その兵百万と聞き孫権は驚愕するが、周瑜は、実際には14~5万しかおらず、軍隊は疲弊しきっているので勝機はこちらにあると孫権を説得する。
劉備からは諸葛亮、孫権からは魯粛が使者となり同盟を結び、長江を挟んで対峙する。孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を送る。12月黄蓋は策を練り、実行される。周瑜は失策失敗を理由に黄蓋を鞭打ちし、恨みを持った事を理由に黄蓋は降伏した。しかし、これは偽装であり内側より火攻めに成功、多くの軍船が沈んだ。苦肉の策という故事成語はこの時より生まれた。
曹操軍は慣れない江南の地で疫病や兵糧不足に悩まされたこともあり、荊州の大半を放棄し、樊城の守りを曹仁に託し許都に引き返してしまう。
孫権・劉備側の完全勝利ということもあり、あたかも曹操が致命的な痛手を負ったかのように評される事もある。しかし実際に名前の知られた曹操配下の武将の戦死・戦傷の例が皆無であり、またその後の曹操が莫大な費用のかかる銅雀台の建設を進めていることからして、少なくとも致命的な被害とは言えないと考えられる。実際にどの程度の被害であったかは史書にはっきりとは記載されておらず、推測するほかは無いが、この戦いの結果により曹操の南下政策が頓挫したのは事実である。
[編集] 演義における赤壁
『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。
『三国志演義』では、朱元璋が陳友諒の水軍を火計で打ち破った鄱陽湖の戦いをベースにしている部分があるので注意が必要である。
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉琮と後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を会わせ「百万」と号した。諸葛亮の意見を取り入れず荊州を奪う事を諦めた劉備は曹操軍に追われ、ひたすら南に逃げるが大量の領民を引き連れたために進軍速度が上がらず長坂坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れると、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していたが、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。当初、周瑜は魏に降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒って孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。また、火計を効果的にするために、当時在野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く(民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初めから知っていたと言う話やドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある)。機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。