郭沫若
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
郭沫若(かくまつじゃく Guo Moruo 1892年11月16日 - 1978年6月12日)は中国の政治家、文学者、詩人、歴史家。諱は開貞。沫若は号。字は鼎堂。四川省楽山県出身。中国の近代文学・歴史学の先駆者。
目次 |
[編集] 経歴
1914年に日本へ留学し、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、岡山の第六高等学校を経て、九州大学医学部を卒業。在学時から文学活動に励み、1921年に上海で文学団体「創造社」の設立に参加する。その後、国民党に参加するが蒋介石と対立し、日本へ亡命。日本では中国史の研究に没頭する。1937年に日中戦争が勃発すると帰国して国民政府に参加。
戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理・科学院院長・文化教育委員会主任を兼任。1954年には全人代常務副委員長に就任。1959年に中国共産党入党。文学・史学の指導に努める。
しかし文化大革命が起きると自己批判をして自らの業績を否定した事で内外の失望を買った。1975年には再び全人代常務副委員長に就任する。1978年、死去。
[編集] 業績
郭沫若の業績は非常に多岐にわたる。文学の代表作としては『女神』・戯曲『屈原』などがあり、中国古代史学においては西周時代を奴隷制時代とした『中国古代社会研究』など。三国志関連では論文「替曹操翻案」を発表しており、これは当時悪人扱いだった曹操の評価を改める大議論のキッカケとなった。ちなみにその際に発表された論文の数々は郭沫若のものを含めて『曹操論集』という書物に編集されている。
[編集] 郭沫若同志故居
郭沫若の旧宅。北京の高級住宅地で政治家の家が密集する什刹海地区にある。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 中華人民共和国の歴史学者 | 中華人民共和国の政治家 | 中国の詩人 | 東洋学者 | 1892年生 | 1978年没