酒井忠以
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酒井 忠以(さかい ただざね、宝暦5年12月23日(1756年1月24日)- 寛政2年7月17日(1790年8月27日))は、江戸時代の播磨姫路藩酒井家第2代藩主。
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生誕 | 宝暦5年12月23日(1756年1月24日) | |||
死没 | 寛政2年7月17日(1790年8月27日) | |||
別名 | 直之助 | |||
諡号 | 一得斎、一得庵、払袖、宗雅 | |||
父母 | 父:酒井忠仰 母:里姫(松平乗佑の2女) 養父:酒井忠恭(実は祖父) |
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兄弟 | 酒井忠以、酒井抱一 | |||
妻 | 嘉代姫(松平頼恭の娘) | |||
子 | 酒井忠道、酒井忠実 |
[編集] 生涯
酒井忠仰の長男として江戸に生まれる。父が病弱だったため、祖父・酒井忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。
絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平不昧と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、不昧から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。
一方、忠以の代の藩政であるが、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革に当たらせようとしたが、保守派からの猛反発や寛政2年(1790年)の忠以の死もあって、道臣は失脚、改革は頓挫した。
また筆まめで、趣味、日々の出来事・天候を「玄武日記」(22歳の正月から)「逾好日記」(33歳の正月から)に書き遺している。
なお、余談だが、忠以の大成した茶懐石は「逾好日記」を基に平成12年9月に、和食研究家の道場六三郎が「逾好懐石」という形で再現してみせている。
36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、家督は長男の酒井忠道が継いだ。
[編集] 年譜
- 1755年(宝暦5年) :生まれ
- 1766年(明和3年) :名を忠以と改名
- 1772年(安永元年):酒井家相続(8月27日)
- 1785年(天明5年) :溜間詰
- 1790年(寛政2年) :死去(7月17日)、享年36
[編集] 官位位階
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