酒井忠恭
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酒井 忠恭(さかい ただずみ、宝永7年5月15日(1710年6月11日) - 安永元年7月13日(1772年8月11日))は、江戸時代中期の大名。はじめ上野前橋藩主。のち播磨姫路藩主。
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[編集] 生涯
前橋藩分家の越前敦賀藩主酒井忠菊の三男。幼名を直之介。初名は忠知。長兄で同じく前橋藩主となっていた酒井親本に子がなかったため、親本の後をついで上野前橋藩主となる。藩主在職のまま死去し、忠恭の後は、孫の酒井忠以が継いだ。
正室は榊原政邦の娘、継室は松平近形の娘。子に酒井忠仰、酒井忠得、酒井忠宜、酒井忠温、池田治政室、井伊直禔室、土井利貞室、酒井忠節室、本多忠奝室、牧野宣成室、仙石久道室らがいる。養女に酒井忠鄰室(実父は酒井忠用)。
[編集] 姫路転封工作
寛延2年(1749年)、忠恭は前橋から姫路に転封する。ところが、この国替顛末の裏で、大変な事件が起こった。酒井氏は前橋にいた頃から、すでに財政が悪化していた。前橋があまり豊かでなかったことが大きかったが、そのため、家老・本多光彬や江戸の用人・犬塚又内らは、同じ15万石ながら、畿内の先進地に位置し、内実はより豊かと言われている播磨姫路に目をつけ、ここに移封する計画を企図し、忠恭もそれに乗った。
ところが、同じく家老の河合定恒は「前橋城は神君(家康)より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」として姫路転封工作に強硬に反対したため、以後、本多、犬塚らの国替え工作は河合を頭越しに秘密裏に行われた(移封後の1751年、定恒は、光彬、又内の両名を惨殺し、代々の藩主への謝罪状をしたためて自身も切腹している)。
ところが、姫路は当初の期待とは裏腹に、寛延元年(1748年)夏には大旱魃が起き、姫路藩松平氏は、年貢徴収の手を緩めなかったため、領民の不満が嵩じていた。そこへ、藩主・松平明矩が同年11月16日に死去し、松平氏が他国に転封するという噂がのぼると、借金踏み倒しを恐れた領民たちは一揆を起こし(寛延の百姓一揆。12月21日発生)、翌・寛延2年になっても騒ぎは収まらず、そのさなかの1月15日、前橋の酒井と、姫路の松平喜八郎の領地替の命令が出された。
一揆は2月には収拾したが、この混乱が尾を引き、忠恭の転封は5月22日にずれ込み、藩士の移住はさらに遅れ、しかも7月3日には姫路藩領内に今度は台風が襲い、死者・行方不明者を400人以上も出し、8月にも再び台風が襲い、3000人余が死亡するなどの大被害を受け、酒井氏はますます財政が悪化した。
[編集] 略歴
- 1710年(宝永7年) 生誕
- 1731年(享保16年) 前橋藩相続
- 1740年(元文5年) 4月3日、大坂城代
- 1744年(延享元年) 5月1日、大坂城代免、西丸老中(9月18日~)
- 1745年(延享2年) 西丸から本丸に転じ、老中首座
- 1749年(寛延2年) 1月15日、老中罷免、溜間詰、播磨姫路へ国替の幕命
- 1772年(安永元年) 7月13日、死去
[編集] 官職位階履歴
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