酒井忠鄰
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 延享4年(1747年) | |||
死没 | 文化6年6月27日(1809年8月8日) | |||
別名 | 勝次郎(幼名) | |||
墓所 | 東京都港区愛宕の青松寺 | |||
官位 | 従五位下、大和守、越前守 | |||
藩 | 安房勝山藩主 | |||
氏族 | 酒井氏 | |||
父母 | 父:酒井忠大 | |||
妻 | 正室:酒井忠恭の養女(酒井忠用の娘) | |||
兄弟 | 酒井忠籌、酒井忠鄰、酒井忠義 | |||
子 | 酒井忠和、娘(土井利豊室) 娘(島津久道室)、養女(横瀬貞樹室) |
延享4年(1747年)、第4代藩主・酒井忠大の次男として江戸で生まれる。長兄の酒井忠籌が早世したため世子に指名され、宝暦6年(1756年)の父の死去により、家督を継いで藩主となった。宝暦13年(1763年)12月に従五位下、大和守に叙任する。
明和6年(1769年)、明和8年(1771年)に大坂加番を務めたが、このように役職に就いたがために出費も激しく、さらに明和7年(1770年)には旱魃も起こり、それによって百姓による騒動が発生した(西領騒動)。この騒動は、忍足佐内という百姓が年貢減免・不正を行なう役人の罷免などを求めて起こしたものであるが、勝山藩ではこれを受け入れず、逆に佐内は処刑され、家族は家財没収に処される有様であった。しかし百姓側は安永元年(1772年)から安永2年(1773年)にかけて老中に駕籠訴して、遂に訴えが認められ、不正役人らは処罰され、家族も罪を許されて終焉したという騒動である。
天明元年(1781年)、越前守に転任し、天明2年(1783年)7月に三度目の大坂加番に任じられる。寛政5年(1793年)5月6日、長男の酒井忠和に家督を譲って隠居し、文化6年(1809年)6月27日に死去。享年63。
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