安房勝山藩
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安房勝山藩(あわかつやまはん)は、安房国に存在した藩。加知山藩とも呼ばれる。
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[編集] 藩史
天正18年(1590年)の小田原征伐で、安房一国は里見義康に安堵された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも義康は東軍に与して所領を安堵されたが、慶長19年(1614年)に義康の子・里見忠義は大久保長安事件で大久保忠隣の孫娘を正室としていたことから連座して改易され、伯耆国倉吉藩に流罪となり、居城の館山城も破却された。
代わって徳川家譜代の家臣・内藤清政が3万石で入ったが、清政は嗣子無くして元和9年(1623年)に早世する。弟の内藤正勝は幼かったため、安房勝山藩は一時的に除封された。その後、成長した内藤正勝が寛永3年(1626年)に再度封ぜられて入るが、寛永6年(1629年)に兄と同じく早世する。嫡子の内藤重頼はまだ1歳という幼少だったため、再び除封された。ちなみに内藤重頼は5000石の旗本として残り、昇進して後には大坂城代、京都所司代となり、大名として復帰する。重頼の養子・内藤清枚は旗本から摂津富田林藩を経て、元禄4年(1691年)に信濃高遠藩に移封された。
このため、安房勝山藩は廃藩となっていたが、寛文8年(1668年)、酒井忠国が叔父の若狭小浜藩主・酒井忠直から1万石を分知され、勝山を居城にして再び立藩した。その後、5000石加増、3000石の分知を経て、1万2000石となった。以後、9代にわたって、小浜雅楽頭系酒井氏の分家の藩として存続し、明治時代に至った。
歴代藩主の多くが、大番頭や大坂加番、奏者番などを歴任した。藩政においては、明和7年(1770年)の第5代藩主・酒井忠鄰の時代に起こった西領騒動が有名である。
藩主である酒井家は、明治17年(1884年)に子爵に列せられたが、明治30年(1897年)に位を返上している。
[編集] 歴代藩主
[編集] 里見(さとみ)家
12万石(外様)
[編集] 内藤(ないとう)家
3万石(譜代)
[編集] 酒井(さかい)家
1万石→1万2000石。(譜代)
- 酒井忠国(ただくに)従五位下。大和守。
- 酒井忠胤(ただたね)従五位下。備前守。
- 酒井忠篤(ただあつ)従五位下。越前守。
- 酒井忠大(ただもと)従五位下。大和守。
- 酒井忠鄰(ただちか)従五位下。越前守。
- 酒井忠和(ただより)従五位下。大和守。
- 酒井忠嗣(ただつぐ)従五位下。越前守。
- 酒井忠一(ただかず)従五位下。安芸守。
- 酒井忠美(ただよし)従五位下。大和守。