野口王墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県明日香村に所在する古墳時代終末期の八角墳である。天武・持統合葬陵である。日本書紀に「大内陵」と書いてある。檜隈大内陵ともいう。
目次 |
[編集] 概要
本古墳は、天皇陵古墳として考えてよく、被葬者の実在性も問題がなく、確実さの立証できる数少ない陵である。そのほかには、天智陵(御廟野古墳)を上げることが出来る。
[編集] 治定まで
本古墳が正式の指定までにはかなりの紆余曲折があった。 『日本書紀』持統元年(687年)10月の条に「大内陵を築く」の記事があり、その後の時代にも記録が散発的に残っていて、文献でのかなりの手懸かりのある古墳である。平安時代の記録では、藤原定家の日記『明月記』に文暦2年(1235年)3月20日と21日の両夜に賊が入り盗掘を受けていることが記録されている。室町時代から江戸初期にかけては、陵としての管理が廃れてしまった。1791年(寛政3)刊の『大和名所図絵』に旅人達が墳丘の上に登ることはもちろんのこと、石室の内部にも自由に入って見学している様子が書かれている。 江戸時代には天武・持統合葬陵として野口王墓説と見瀬丸山古墳説があった。幕末には、1854年(嘉永7)刊で津久井清彰の『聖蹟図志』に見られるような見瀬丸山古墳説が合葬陵として急に有力となり、野口王墓は一時、文武陵として扱われた。1871年(明治4)には、見瀬丸山古墳が正式に檜隈大内陵に指定された。しかし、1881年(明治41)、正式に天武・持統合葬陵に指定替えが行われた。
[編集] 薄葬令
646年(大化2)に薄葬令が出されたが、皇帝から庶民まで古墳造営の否定ではなく、王、上臣、下臣らの一部の支配者層だけは、古墳の造営を続け、それ以下の官人及び庶民は古墳造営が禁止された。言い換えると、一部厚葬、大多数薄葬であった。これも例としては、本古墳を始め、中尾山古墳、高松塚古墳などが上げられる。
[編集] 被葬者
天武・持統が合葬されている。持統は、703年(大宝3)に飛鳥岡で火葬にされた後、天武陵に合葬された。記録上では最初に火葬された天皇である。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目 | 古墳 | 奈良県の史跡 | 明日香村