野木宮合戦
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野木宮合戦(のぎみやかっせん)は寿永2年(1183年)2月23日に、下野国野木宮で源頼朝らと志田義広らが争った合戦である。
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[編集] 経過
[編集] 戦前
志田義広は源為義の三男であり源頼朝の叔父にあたる。治承4年(1180年)に頼朝が平家打倒の兵を挙げ鎌倉に政権を建てるが、それには加わらず常陸国に居住していた。
寿永2年(1183年)2月、頼朝の御家人らは鎌倉に襲来すると風聞された平家のため駿河国に在った。
20日、義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、三万余騎を率い下野国へと到る。頼朝は下河邊庄司行平と小山朝政に対応を託し、朝政の弟小山宗政と従兄弟関政平は、朝政を助けるため鎌倉を発し下野に向かう。政平はその途路で義広の軍に加わり、頼朝は翌日から鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈り始める。
[編集] 合戦
23日、義広は鎌倉へ軍を発する。まず義広は足利忠綱を誘い軍に加える。足利と小山は同族であるが下野で勢力を争っており、忠綱は宇治川の戦いでも平家に加わり以仁王や源頼政を破るなど、以前より源氏に反抗していた。次に義広は小山朝政も誘う。朝政は父小山政光が京で勤仕していたため兵が少なく、義広に加わると偽り、野木宮に潜んだ。
返答を受けた義広は喜んで朝政の館に赴き、その途中の野木宮に到ると、朝政らは声をあげ義広らを狼狽させる。次に朝政の郎従である太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎、小山朝光の郎従である保志泰三郎らが義広を攻め、義広は矢を放ち朝政を落馬させる。この馬を戦場に向う途中の登々呂木澤で拾った小山宗政は、朝政が討たれ合戦は敗れたと考え、急ぎ義広の陣へ向い、その途路で義広の乳母子である多和利山七太を討つ。その後、義広は野木宮西南に陣を引き、朝政と宗政は東から攻めるが、東南からの暴風により巻き上げられた焼野の灰が視界を妨げ、戦いは乱れ、地獄谷登々呂木澤では多くの死骸が残った。
下河邊庄司行平と弟の政義は古河と高野を固め、義広軍の敗走兵を討った。足利有綱、佐野基綱、浅沼広綱、木村信綱、太田行朝らは、小手差原や小堤に陣を取り戦った。他には、八田知家、下妻淸氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄、源範頼らが朝政に加わった。なお吾妻鏡において範頼はここが初見である。
[編集] 戦後
27日、鶴岡八幡宮での祈祷を終えた頼朝は、朝政らの使者から義広の逃亡を聞く。翌日には小山宗政からの報告を受け、義広に加わった武士の所領を全て取り上げ、朝政や朝光らに恩賞を与える。これにより関東において頼朝に敵対する勢力は無くなった。
足利忠綱は上野国での潜伏を経て、山陰道を通り西海へ赴いた。義広は源義仲の下に加わるが、最期は伊勢国で討たれた。
[編集] 合戦の年月日
吾妻鏡はこの戦いを治承5年閏2月23日に記しているが、元久2年8月7日や建久3年9月12日の記事には、寿永2年2月23日に戦ったと記されている。この矛盾は吾妻鏡の編集に誤りがあり、実際の戦いは寿永2年2月23日に行われたと解されている。