足利忠綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足利 忠綱(あしかが ただつな、長寛2年(1164年)? - 没年不明)は、平安時代末期の武将。下野の藤姓足利氏・足利俊綱の子。通称は又太郎。幼名は王法師。治承・寿永の乱において、平家方について戦った猛将。敵対した側(後の鎌倉幕府)の歴史書である『吾妻鏡』は、忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。
[編集] 生涯
治承4年(1180年)、平清盛を討伐するため、以仁王の令旨を奉じて源頼政らが挙兵。同じ下野の同族小山氏が王の令旨を受けたのに対し、足利氏は受けなかったのを恥辱に感じ、清盛方に加勢。ただちに一門を率いて上洛し、頼政らを攻めた。このとき忠綱は、17歳であったというが、宇治川の戦いで先陣として堂々たる名乗りを上げ、将兵の渡河をうながし、合戦を勝利を導くという勲功を挙げた(頼政は討死)。
このことにより大いに武名が高まったため、恩賞として父・俊綱以来の宿願である上野国十六郡の大介職と新田荘を平清盛に請求した。清盛はこの申し入れを受け入れるが、忠綱の郎党が恩賞は一門で等しく配分すべきであると清盛に抗議したため、わずか数時間で撤回されたという。巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる(以上、『源平盛衰記』)。
その後、源頼朝が伊豆国で挙兵すると、領国に戻ってこれに対抗。寿永2年(1183年)2月、常陸国の志田先生義広と結び、頼朝方についた小山朝政と野木宮で戦うが、あえなく敗北し上野へ逃げ戻った(野木宮合戦)。
その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いたと『吾妻鏡』養和元年閏2月25日(1181年4月10日)条にあるが、その後の消息は不明。