開陽丸
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開陽丸(かいようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦の一つ。オランダ製。オランダでの愛称は"Voorlihter"(夜明け前)。木造蒸気船。排水量2817t、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m、補助機関馬力400、マスト3本(木造螺旋推進式)、備砲計26門(螺旋式大砲16門・16cm中級カノン砲8門)。幕府所有の軍艦の中では最強の軍艦。平成2年(1990年)4月、北海道檜山郡江差町に開陽丸が復元された。
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[編集] 歴史
[編集] 発注
当時江戸幕府は、外国船に劣らない新鋭艦の必要性を感じてアメリカへ軍艦発注を行おうとしていたが、南北戦争勃発のため、急遽発注先をオランダに変更。文久2年(1862年)、オランダに新鋭艦の発注を頼むと同時に、軍艦引き受けをかねて内田恒次郎を取締役とした日本人留学生ら15名を派遣した。メンバーには内田の他に、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松大三郎、田口俊平、津田真一郎、西周助などがいた。留学生達は、同年9月11日長崎を出港、文久3年(1863年)4月18日に無事オランダのロッテルダム港に到着する。
[編集] 建造
同月、オランダの貿易会社はヒップス造船所に日本向け軍艦の造船を依頼し、造船契約が成立。8月には起工式・竜骨の据え付けが行われた。元治元年(1864年)、幕府より軍艦命名の指示が出され、同年10月20日、内田恒次郎は建造中の軍艦に"開陽丸"と名付けた。慶応元年(1865年)9月14日、元長崎海軍伝習所教師で当時はオランダ海軍大臣となっていたヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケが臨席して開陽丸の進水式が行われ、慶応2年(1866年)6月6日には艤装も終了し、同年7月17日についに完成となり、開陽丸は造船所より留学生らに引き渡された。
[編集] 処女航海
同年10月25日、オランダ海軍大尉ディノーの指揮により、榎本武揚ら9名の留学生を乗せた開陽丸はオランダのフレッシング港を出港。11月12日に暴風雨に遭うが無事。11月26日(西暦1867年1月1日)には船上にて元旦パーティーを催した。赤道を越えて12月16日、リオデジャネイロ港に寄港。11日間滞在の後、12月27日には同港を出港。慶応3年(1867年)となり1月11日、またも暴風雨に遭うが無事。2月17日からは無風が続いたため初めて蒸気機関を使用して航行し、2月25日インドネシアのアンボイナ港に到着した。3月6日にはいよいよ日本へ向けてアンボイナ港を出港、3月26日、榎本ら留学生は開陽丸と共に横浜に無事帰還を果たした。
[編集] 戊辰戦争
横浜到着後、開陽丸は留学生らより江戸幕府に献上され、榎本武揚が開陽丸艦長(軍艦乗組頭取)に任命された。榎本武揚の改革によって開陽丸乗組員はじめ海軍士官の洋式化が行われた。
大政奉還の時には、僚艦の回天丸、朝陽丸と共に江戸湾に有った。しかし、江戸で薩摩藩の討幕派が戦闘行為を誘発させるべく各所で扇動を行い、それに乗せられた幕臣は、12月25日に江戸の薩摩藩邸・佐土原藩邸を焼討するという事件を起こした。薩摩藩の扇動者330名は、薩摩藩船の翔鳳丸に乗って江戸脱出を図り、開陽丸は僚艦と共にこれを追跡砲撃したが、翔鳳丸は大阪に逃れた。これが、開陽丸の初の実戦であった。大阪湾に入った開陽丸は、富士山丸、蟠龍丸、翔鶴丸、順動丸と共に大阪の警備に就いた。12月28日、戦闘回避を望む徳川慶喜は、12月9日の小御所会議で決まった「徳川家の辞官・納地」の受諾を回答した。
慶応4年(1868年)1月2日、榎本の開陽丸は、薩摩藩の平運丸を砲撃、これが、鳥羽伏見における武力衝突の引き金ともなった。戊辰戦争が勃発すると、開陽丸は、阿波沖で薩摩の春日丸、翔鳳丸を砲撃し、翔鳳丸を由岐浦に座礁させ圧倒的な勝利を得る。これが阿波沖海戦である。
鳥羽伏見の戦いが敗れた事を知った艦長榎本は、将軍徳川慶喜へ謁見するため開陽丸を降船、その間に大阪城を脱出した慶喜が入れ違いに開陽丸に乗船して、副艦長沢太郎左衛門に命じて1月8日に大阪を出航、11日に江戸へ帰還してしまった。置き去りにされた榎本は、富士山丸に大阪城内の書類、重要什器、刀剣類、城内に有った金18万両を積み込み、フランスの軍事顧問団のブリューネ、カズヌーフを乗せ、1月12日に大阪を出航。1月14日に江戸品川沖に入港した。
その後榎本は、海軍副総裁に就任し、4月11日の江戸城無血開城に至って、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し続けた。そして同年8月19日、開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸・蟠竜丸・千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)を加えて品川沖を脱走。榎本は総司令官を勤めたため、開陽丸艦長には沢太郎左衛門が任命された。途中暴風雨に遭い美賀保丸・咸臨丸を失うも、開陽丸は8月末に何とか仙台に到着。すぐさま修繕が行われ、奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた、大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府脱走兵らを艦隊に収容、10月12日仙台折浜より蝦夷地へ渡航し、箱館戦争となる。
[編集] 沈没
同月20日に蝦夷地鷲の木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲の木沖に停泊。10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。その援護をするため開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。11月15日には江差沖に到着するが、土地特有の風浪(タバ風)に押されて座礁。回天丸・神速丸が救助に向かったが上手く行かず、岩礁に挟まれた開陽丸は身動きが取れなくなり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は沈没した。