関釜連絡船
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関釜連絡船(かんふれんらくせん)とは、戦前の鉄道省(国鉄の前身)が本州の下関から日本領であった朝鮮(現、大韓民国)の釜山の間を運行していた鉄道連絡船である。また、戦時中に福岡市の博多港と釜山の間を運行していた博釜連絡船(はくふれんらくせん)についても記す。
もともと私鉄の山陽鉄道傘下の山陽汽船が運行を開始した航路で、鉄道国有法によって山陽鉄道が国有化されたために国鉄の運営となったものである。戦前までは日本から朝鮮・満州・中国そしてヨーロッパに至る国際連絡運輸の一部としての役割も担っていた。
なお敗戦後は、しばらく大韓民国との間に国交がなかったこともあって同区間を運行する航路は存在しない状態が続いていたが、1970年(昭和45年)6月に25年ぶりの日韓定期航路として関釜フェリーが就航した。
[編集] 航路概要
- 関釜航路 下関~釜山 240km 所要7時間30分(1940年10月)
- 博釜航路 博多~釜山 215km 所要8時間10分(1943年7月)
[編集] 航路沿革
- 1905年(明治38年)9月11日 山陽汽船が大韓帝国への外国航路として下関~釜山間に「関釜連絡船」を隔日1往復で新設。京釜線が全通していた事に伴う。
- 1905年(明治38年)11月1日 毎日運行となる。
- 1906年(明治39年)12月1日 鉄道国有法によって国有化され、国有鉄道の運営となる。
- 1910年(明治43年) 韓国併合に伴い、国内航路扱いになる。
- 1943年(昭和18年)7月15日 下関港の容量不足と輸送力の増強の目的から、博多~釜山間に「博釜連絡船」新設。
- 1943年(昭和18年)10月5日未明 関釜連絡船の崑崙丸がアメリカ海軍の潜水艦ワフーの魚雷直撃を受け沈没(死者行方不明者583人)。以後、夜間航行が自粛される。
- 1945年(昭和20年)6月頃 船舶の空襲による被災と対馬海峡の封鎖により事実上消滅。