阿津賀志山の戦い
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阿津賀志山の戦いは、1189年に鎌倉幕府創設期の源頼朝軍と、迎え撃つ奥州藤原氏の軍が阿津賀志山(厚樫山、現福島県伊達郡国見町辺り)で戦った合戦である。
源義経を謀殺して源頼朝に服従の意思を示した藤原泰衡だが、鎌倉幕府による全国統治を進める源頼朝は、1189年に奥州藤原氏の討伐のため鎌倉を出立する。軍勢は3分割し、頼朝は東山道を、比企能員・宇佐美実政軍は北陸道を、千葉常胤・八田知家軍は東海道を進み、平泉の藤原軍を包囲する。『吾妻鏡』によれば、騎馬武者では先陣の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員を加え、さらに道中では各地の豪族を加え、推定される総勢は25,000以上の兵力だったと思われる。
一方奥州の藤原軍は、防衛ラインを伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境として、ここに城砦を築き、阿武隈川の水を引いて総延長3kmに及ぶ三重の防塁で大要塞を築く(阿津賀志山防塁)。総大将は泰衡の異母兄藤原国衡で、金剛別当以下兵力20,000。
戦いでは頼朝は藤田宿に本拠を据え、畠山重忠・小山朝光らの軍が正面から攻撃を加え、朝光が鳥取越(現小坂峠)から迂回して国衡軍の後陣を奇襲する。混乱に乗じて重要点である大木戸を突破し、金剛別当らは討ち取られ、国衡軍は壊滅、国衡は畠山重忠・和田義盛らに発見され討ち取られた。
この戦いののち、藤原泰衡は敗走して蝦夷地(北海道)を目指す中、肥内郡贄柵(秋田県大館市)で家臣に殺害され奥州藤原氏は滅亡した。