阿野時元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿野 時元(あの ときもと、生年未詳 - 建保7年2月11日(1219年2月27日)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。源頼朝の異母弟・阿野全成の四男。母は北条時政の娘・保子(阿波局)。尊卑分脈によると名は隆元とも。通称を阿野冠者という。
四男でありながら、正室の子であったため嫡男とされたらしい。1203年、父の全成は、甥で将軍の源頼家と対立して殺害されるが、この時は母方の祖父北条時政や伯母の北条政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国阿野荘に隠棲した。
1219年1月、従兄弟の三代将軍源実朝の死により征夷大将軍の座が空席となると、翌月その位を望み挙兵する。しかし思うように兵を集めることができないうちに、執権北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に襲撃され、あっけなく討ち取られた。もっとも、この時期義時の手によって源氏の血統が次々と粛清されていることから、時元の事件もその一環として起こったという側面もある。実際にどの程度時元が自ら望んで行動したのか、詳しいことは現在も分かっていない。
時元の子孫は武家の阿野氏として存続するが、この事件の影響もあって振るわず、数代を経て(南北朝期以降)記録から姿を消している。これとは別に、時元の姉妹と結婚していた藤原公佐が阿野荘の一部を相続し、その子孫は公家の阿野家として繁栄している(後醍醐天皇側室・後村上天皇生母として著名な阿野廉子はこの家の出身である)。