大岡忠相
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大岡 忠相(おおおか ただすけ、延宝5年(1677年) - 宝暦元年12月19日(1752年2月3日))は、江戸時代中期の幕臣、大名。大岡忠世家の当主。将軍徳川吉宗が進めた享保改革を支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。越前守だったことや、『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前として知られている。通称は求馬のち市十郎・忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。位階:従五位下。官職:能登守から越前守に転任。
生家は旗本大岡忠吉家で、大岡美濃守忠高の4男、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の四代当主で、9代将軍家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。
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[編集] 略歴
[編集] 出生から町奉行就任まで
江戸屋敷で生まれる。1686年(貞享3年)10歳のとき同族の大岡忠真(大岡忠右衛門忠真)の養子となり、忠真の娘を妻と婚約する。貞享4年には将軍綱吉にはじめて謁見。元禄9年(1696年)には従兄にあたる忠英の事件に連座して閉門処置となる。翌元禄10年には赦され、養父病死のため1700年(元禄13年)家督と遺領1920石を継ぎ、忠世家三代当主となる。
将軍綱吉時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)には書院番となり、翌元禄16年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務める。宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年には使番となり、翌宝永5年(1708年)には目付に就任し、幕府官僚として成長する。宝永6年(1709年)には嫡男忠宣が誕生。
家宣時代、1712年(正徳2年)正月には遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任、佐野直行の跡役で、相役は渡辺輝。同年4月には任地へ赴いている。同年には従五位下能登守に叙任。正徳3年には交代で帰府し、翌正徳4年に再び赴任している。
在職中には、奉行支配の幕領と紀伊徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現伊勢市)と松坂(現松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという。当時の紀伊徳川家藩主で、後に将軍職に就任し忠相を抜擢する徳川吉宗は、事実上一方の当事者だったにも関わらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたという。同様の巷説は幾つかあるが、奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はない。また遠国奉行を経て江戸町奉行という昇進コースは順当なものであり、40代での就任は平均60代よりも若いものの、抜擢人事などではないと指摘される。
将軍家継時代の1716年(享保元年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮。大久保忠位の跡役で、相役は島田政辰と朽木定盛。同年8月には吉宗が将軍に就任し、解任された新井白石や間部詮房らの屋敷代にも携わっている。忠相は翌1717年(享保2年)江戸町奉行(南町奉行)となる。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改める。
[編集] 町奉行時代の活躍
将軍吉宗は享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手するが、忠相は諸改革のうち町奉行として江戸の都市政策に携わることになり、評定所一座にも加わり司法にも携わった。このころ奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が拡大し、忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていた。享保4年(1719年)には本所奉行を廃止して本所深川地域を編入し、奉行所の機構改革も行う。享保8年には相役中山時春が辞任し、跡役は諏訪頼篤となる。
市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、1718年(享保3年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、1720年(享保5年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2000石を加増され3920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化する。
下層民対策では、享保7年に直接訴願のため設置された目安箱に町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。
また、在任中の享保7年(1722年)には弛緩していた江戸近郊の秩序再建のため、地方御用を拝命して農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請などに携わっており、さらに儒教思想を浸透させるため忠孝者への褒章も積極的に行っている。
[編集] 寺社奉行時代から晩年
元文元年(1736年)8月、寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務める。寺社奉行時代には、元文3年に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理する。寺社奉行時代には2000石を加増され5920石となり、足高分を加え一万石の大名格となる。寺社奉行は大名の役職であり、奏者番を兼帯することが通例であるが、旗本である忠相の場合は奏者番を兼帯しなかったため、兼帯している同役達から虐げられたという。そこで将軍吉宗は寺社奉行の詰め所を与えるなどの配慮をしたという。
寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任し、同年には三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名になる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけであり、極めて異例である。1751年6月、大御所吉宗が死去。忠相は葬儀担当に加わっている。この頃には忠相自身も体調が優れず、『忠相日記』の記述も途絶えている。吉宗の葬儀が最後の公務となり、同年11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、翌12月に死去、享年75。
法名:松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士 墓所:神奈川県茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺。また、東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺。
[編集] 官職位階・江戸幕府役職履歴
- 1686年(貞享3年)12月、大岡忠真の養子となる。
- 1700年(元禄13年)7月、家督相続。
- 1704年(宝永元年)10月9日、書院番頭大久保豊前守忠庸組から徒頭に異動。在職中の諱は忠相。また、市十郎から忠右衛門に改称する。
- 1707年(宝永4年)8月12日、徒頭から使番に異動。
- 1708年(宝永5年)7月25日、使番から目付に異動。
- 1712年(正徳2年)1月11日、目付から山田奉行に異動。3月15日、従五位下能登守に叙任。
- 1716年(正徳6年)2月11日、山田奉行御役御免。2月12日、普請奉行に異動。
- 1717年(享保2)2月3日、普請奉行から江戸南町奉行に異動。越前守に転任。
- 1725年(享保10年)9月11日、石高2000石加増。
- 1736年(元文元年)8月12日、南町奉行から寺社奉行に異動し、石高2000石加増。
- 1748年(寛延元年)閏10月1日、奏者番を兼帯。石高4000石加増で合計1万石(三河国西大平)となる。
- 1751年(寛延4年)11月2日、病気依願により寺社奉行御役御免。
[編集] 大岡政談
大岡の江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度のあった忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」など。日本のサスペンス小説の原初的形態を示すもの。忠相の没後から講釈師による原型が作られ、幕末~明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などにも使われ、大衆に親しまれた。
史学的検証から、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保27年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されており、現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚など他の奉行の裁定したものや忠相没後の事件も含まれ、また中国の故事や聖書などに記される裁判物語を基に創作したもの(北宋の名判官包拯の故事に「縛られ地蔵」と同様の、また旧約聖書の列王記にもソロモン王の英知として、子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承あり)が含まれているなど、フィクション性が強い。
通常、大岡は庶民の味方、正義の武士として物語に登場する。ただし一部には『雲盗り暫平』など、大岡を庶民の人気取りだけを考えた、立ち回りの上手な小悪党と解釈する物語も存在する。
[編集] 時代劇ドラマ
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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