青葉城幸雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青葉城 幸雄(あおばじょう ゆきお、1948年11月14日 - )は、宮城県仙台市太白区出身の元大相撲力士。押尾川部屋(入門時は二所ノ関部屋)所属。本名は庄司幸雄(しょうじ ゆきお)。現役時の身長180cm、体重148kg。得意手は左四つ、寄り、吊り。最高位は西関脇(1983年7月場所)。現・年寄不知火(押尾川部屋の閉鎖にともない、現在は尾車部屋所属で日本相撲協会の監事である)。
目次 |
[編集] 来歴
中学時代はサッカー部に所属。相撲経験は無かったが、横綱・大鵬のような力士になりたいと卒業直前に力士を志し、アルバイトで貯めた金で上京し二所ノ関部屋に出向き入門を許可された。卒業後に入門し、1964年3月場所に初土俵を踏んだ。同期生には高見山、黒姫山がいる。本人曰く「同期生がいたからここまでこれた」と語る。入門前に相撲経験が無かったため幕下でやや苦労したが、1971年5月場所に十両に昇進した。十両でも4年近く掛かったが、1975年1月場所に新入幕を果たした。幕内4場所目の同年7月場所には終盤まで優勝争いに加わり、横綱・北の湖を破るなど活躍し、敢闘賞を獲得した。翌9月場所には新三役・小結に昇進した。その場所後には、押尾川親方(元大関・大麒麟)の独立騒動で巻き込まれてしまい、押尾川部屋に移籍した。もみ上げを伸ばした古風な風貌と左四つの形に風格があり、自分十分の形になると横綱とも互角に相撲を取り、反面形にならないとあっさりと土俵を割ってしまう事も多かった。又、時には対戦力士に気遣い過ぎる面もあり、北の湖二世と呼ばれて将来を嘱望された小沼を負傷させた際には相手に恨まれたこともあってかかなり気落ちし、しばらくは成績も伸び悩んだ。1980年11月場所に一度は十両に陥落し再入幕まで1年近く掛かったが、吊技に磨きをかけ1983年7月場所には最高位の関脇まで番付を上げた。三役から陥落した後も長く幕内上位で相撲を取り続けたが、次第に体力の衰えが隠せなくなり1986年3月場所には十両に陥落。同年7月場所に幕下の綛田(後の関脇・栃乃和歌、現・春日野)に敗れた一番を最後に現役を引退。15歳で初土俵を踏んでから37歳8か月で引退するまで休場が1度もなく「丈夫で長持ち」と言われ、初土俵以来連続出場記録保持者としてギネスブックにも登録された。年寄・不知火を襲名し、押尾川部屋、尾車部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たっている。また、2006年2月から監事を務めている。NHKの大相撲放送では、千秋楽の中入り後解説(向正面)を担当することが多かった。
[編集] 主な戦績
- 幕内成績:429勝501敗(62場所)
- 三役在位:2場所(小結1場所、関脇1場所)
- 金星:1個(北の湖)
[編集] 三賞
- 敢闘賞 1回(1975年7月場所)
[編集] 改名歴
- 大庄司 幸雄(おおしょうじ ゆきお)1964年3月場所~1971年3月場所
- 青葉城 幸雄(あおばじょう-)1971年5月場所~1986年7月場所
[編集] 関連項目
この「青葉城幸雄」は、相撲に関連した書きかけ項目です。 記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めています。(スポーツポータル/相撲プロジェクト) |
カテゴリ: 相撲に関するスタブ | 1948年生 | 宮城県出身の大相撲力士