飯富虎昌
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飯富 虎昌(おぶ とらまさ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の重臣。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 永正元年(1504年)? | |||
死没 | 永禄8年10月19日(1565年11月11日) | |||
官位 | 兵部少輔 | |||
氏族 | 飯富氏(河内源氏あるいは甲斐源氏) | |||
兄弟 | 弟:山県昌景(甥説あり) |
目次 |
[編集] 出自
飯富氏は河内源氏(あるいは甲斐源氏)の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われる。別説に古代の多氏の末裔説がある。虎昌の父(又は祖父)は道悦といい、永正年間の戦いにおいて戦死したと伝わる。虎昌は武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃佐久郡内山城を領した。
[編集] 生涯
[編集] 信虎時代
永正元年(1504年)に生まれたとされているが、生年には諸説があって定かではない。
一時期、今井信元・栗原兵庫らと共に信虎に謀反したこともあるが、降参して許され、その後は信虎に従った。天文5年(1536年)に北条氏綱が駿河に侵攻すると、信虎と共に今川軍の援軍として参戦し、北条軍を大いに破った。天文7年(1538年)にも諏訪頼満・村上義清の連合軍と戦い、このとき寡兵であるにも関わらず、数で勝る連合軍を打ち破り、自らは首級97を挙げるという軍功を挙げたとまでされている。
天文10年(1541年)、武田家宿老であり有力国人であった板垣信方、甘利虎泰らと共に信虎の嫡男・晴信を擁立して信虎を駿河に追放し、以後は武田家の宿老として晴信をよく支えた。
[編集] 信玄時代
天文17年(1548年)、信方と虎泰が上田原の戦いで戦死した後は、武田軍団の中核となって信玄を支えた。
軍事面では常に武田家の最前線に立ち、天文22年(1553年)に自らが守備する内山城を長尾景虎(上杉謙信)・村上義清の8000の軍に囲まれた時には、わずか800の手勢でこれを撃退した。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは妻女山攻撃の別働隊の大将を務めるなど柱石として武田氏躍進に尽力するとともに、信玄の嫡男・武田義信の傅役(後見人)に任命されるなど、武田家随一の宿老として重きを成した。
[編集] 最期
『甲陽軍艦』に拠れば傅役を務める義信と信玄父子の仲は決して良好なものではなく、対今川氏の方針をめぐって信玄と義信父子が対立を深めると、虎昌は義信を担いで謀反をたくらんだとして捕らえられ(密告したのは虎昌の弟(甥)の三郎兵衛・後の山県昌景)、永禄8年(1565年)10月19日、その責任を取らされる形で自害した。これにより飯富家は断絶し、虎昌の家臣は、三郎兵衛が山県家の名跡を襲ったのに併せて引き継ぐこととなった。享年62。墓所は山梨県甲斐市亀沢(旧中巨摩郡敷島町)の天沢寺。
しかし、この虎昌の自害の理由には諸説があって定かではない。義信の父・信玄への謀反の計画を三郎兵衛に伝わるように虎昌自身が画策し、自身は義信をかばって謀反の首謀者として断罪されたともされる一方で、信玄の信濃経略や上杉謙信との度重なる抗争に反対することが多く、また虎昌自身が武田家で大きな勢力を誇っていたため、義信事件を契機として信玄自らが粛清に及んだという説もある。虎昌と同じく南巨摩の領主・穴山信君の弟・信邦も連座して切腹していることから、親今川派の国人の反発という面も有する。