板垣信方
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 天文17年2月14日(1548年3月23日) | |||
改名 | 信方(別名) | |||
官位 | 駿河守 | |||
氏族 | 板垣氏 | |||
主君 | 武田信虎→武田信玄 | |||
子 | 板垣信憲 |
板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、武田信玄の2代に仕える。武田二十四将、武田四天王の一人。
[編集] 生涯
板垣信方は勇将の誉れ高い武田氏の宿将として信虎の代から活躍、傅役として若き信玄の行状を度々諌め、後年に甲斐の虎と呼ばれる信玄の基礎を作った。天文10年(1541年)の信虎追放後は甘利虎泰とともに両職として武田軍の指揮を取り、信玄が出陣できない時は名代として軍団の総指揮を執るなど信濃国制圧に尽力した。天文14年(1545年)には高遠城を攻略、天文15年(1546年)10月には笛吹峠で上杉憲政の軍を破るなど、軍略家としての名に恥じぬ戦巧者ぶりを見せるが、同時にこの頃から増長気味の行いが目に付くようになった。
戦勝の折に信玄の許可なく勝鬨式や首実検等を行うようになり、信玄からやんわりと『誰もみよ、満つればやがて欠く月の、十六夜ふ穴や、人の世の中』と和歌でその行いを窘められる等、大人気ない行いが目立つようになり、また軍才もやや衰え気味で、天文16年(1547年)には村上氏との戦いであわや全滅の憂き目に会い、原虎胤に救援されたりしている。
天文17年(1548年)2月14日の上田原の戦いで、緒戦の勝利に気を緩めたか、勝鬨をあげ首実検をしている最中に体勢を立て直した村上義清軍に急襲され戦死する。
[編集] 出自・子孫
板垣氏は本姓源氏で、甲斐源氏宗家の武田氏の祖の源信義(武田信義)の三男の板垣兼信にはじまる。
信方の死後、家督は嫡男の信憲が継いだが、不行跡のために武田信玄によって武田家から追放され、のちに誅殺された。これによって板垣家の嫡流は断絶している。
息子が関ヶ原の戦いに際し、山内一豊家臣の乾彦作に陣借りをし、その後に彼の養子となったため直系に当たる板垣退助は子孫と称した。(乾家の系譜によれば、先祖の正信は信方の孫で、武田氏滅亡後、浜松にいた山内一豊の重臣乾彦作の養子となり、以後、代々土佐藩山内家に仕え、退助は正信より十代の子孫だとしている。)