高遠城
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桜の季節の城門 | |
通称 |
兜山城 |
城郭構造 |
平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
不明 |
築城年 |
不明 |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、土塁、空堀、門 |
位置 |
高遠城(たかとおじょう)は、天文16年(1547年)に築城された長野県伊那市高遠町にある城。兜山城の別名をもつ。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 高遠氏
高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていたが、天文14年(1545年)4月に武田信玄軍が杖突峠を越えて高遠城を取り囲んだ際、勝ち目がない事を悟った頼継は、自ら城を開いて降伏した。
[編集] 武田氏時代
武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547年)、山本勘助、秋山信友に命じて大規模な改築を行い、秋山信友らを城主とした。永禄5年(1562年)には諏訪勝頼が城主となったが、元亀元年(1570年)、武田信玄は勝頼を自分の後継者として躑躅ヶ崎館に置き、実弟の武田信廉を城主とする。
信玄亡き後、高遠城は重要な軍事拠点として、織田氏からの甲斐進攻の最終防衛基地の役割を担い、天正9年(1581年)には勝頼の実弟の仁科盛信が高遠城主となった。翌天正10年(1582年)2月、織田信長は本格的な武田攻めを企て、長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千。織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いの末、最後には全員が玉砕して落城した。高遠城の落城により、武田氏は瓦解。9日後に武田氏は滅亡した。
[編集] 織田氏時代
織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利秀頼が城主となるが、そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が起こり、高遠城には突如、武田家の旧臣・木曽義昌が攻め込み、これを占領した。以後、徳川家康と木曽義昌の攻防の舞台となるが、結局、家康によって木曽義昌は高遠城を追われて深志城に撤退した。
[編集] 江戸時代
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。元禄4年(1691年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。
現在ある問屋門は昭和23年に町内の旧家から移築したものである。
なお、桜の名所としても有名である。
また、菱櫓と呼ばれる三層三階の櫓が本丸に聳えていた。
[編集] アクセス
東海旅客鉄道飯田線・伊那北駅または伊那市駅よりバスで15分。