魯粛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
魯粛(ろ しゅく 172年 - 217年)中国後漢末に袁術・孫策・孫権(後の呉)に仕えた武将・参謀。字は子敬。徐州の臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。曹操との赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論を唱え周瑜と共に開戦に成功した。また劉備陣営との提携に成功させた。周瑜の死後は孫権陣営の舵取り役として活躍する。魯淑の父、魯睦の祖父。
目次 |
[編集] 経歴
生まれてすぐ父親が死去。裕福な家に産まれたが家業は放り出し、財産をなげうって困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだ。また剣術・馬術・弓などを習い、私兵を集め兵法の習得などに力をいれていた。周瑜が孫策の元に行く前に、資金や食料の援助を求めにきた時、彼は持っている2つの倉の内の片方をそっくり与えた。魯粛と周瑜はこれをきっかけに親交を持つ。
[編集] 孫権政権へ
魯粛の名声が高まると、袁術に請われ配下となり、東城県の長に任命された。しかし魯粛は袁術の支離滅裂な行状に見切りをつけ、一族郎党を引き連れて周瑜を頼り、袁術から独立し急速に力を増している孫策の配下になった。
孫策が亡くなると、孫家から離反する人物が多かった。魯粛も友人の劉曄に誘われて孫家から離れ、巣湖に拠る鄭宝の元に行こうとする。しかし周瑜の説得により思いとどまり、孫権に仕官する。
[編集] 大胆な戦略
魯粛が孫権に初めて謁見した時、「漢室再興」を望む主君に対して、漢の高祖の例を挙げつつ「漢室再興も、曹操をすぐ除く事も不可能」と断じ、まずはじっと様子を伺い、北方の騒乱に乗じて黄祖、劉表を攻めて荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから自ら帝王を名乗るべしとした。 この戦略は後年における諸葛亮の天下三分の計に先んじるものであり、かつ「自ら帝王になれ」という非常に野心的で大胆すぎる提案であった。孫権は「今は地方が手一杯。漢室がお救いできればと願うばかりで、そのような事はおよびもつかないな」と答えるのみだった。しかし、重臣の張昭が魯粛の不遜さを中傷しても孫権は意に介さず、ますます魯粛を重用した。
[編集] 孫劉同盟を司る
赤壁の戦いの直前に劉表が亡くなると、すぐに荊州の様子を探りに行くように進言。その事情を把握すると劉備と同盟を結び曹操と対峙する事を進言した。そして、周瑜を召しかえし、曹操の軍にあたらせたり、諸葛亮と話し合い同盟の手はずを整えるなど赤壁の戦いの時は主に縁の下で働いていた。
周瑜が亡くなるとその遺言で後継者として選ばれ、呉の軍隊をとりまとめた。地方でも彼の威徳は行き渡り、赤壁の戦いで疲弊していた呉の国力を回復させる。劉備の部下の関羽と魯粛の間では、荊州を巡ってしばしば紛争が起こっていたが、魯粛は劉備と同盟し、曹操に当たることが呉の将来のためであることを信じ、劉備達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにした。しかし、要求を行う時は常に毅然とした態度で臨み、兵を用いずして荊州南部の三郡(長沙・零陵・桂陽)を取り返す事に成功した。
217年に46歳で亡くなった。
[編集] 人物
『正史』では、虚虚実実の渡り合いを見事にこなし、沈着冷静にして剛毅な人柄であることがうかがえる。特に、赤壁の戦い以降、煩雑な情勢を巧みにあしらい、あわよくば荊州をものせんとする蜀を退けるなど、外交官、行政官としても卓越した手腕の持ち主であり、柔軟さに優れた戦略家であった。
しかし、『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛亮にいいようにやられ、周瑜になじられるという損な役回りを演じている。また、正史では成功した関羽との交渉も、演義ではけんもほろろに追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか連環画などではその性格を表した風貌に描かれることが多い。