鷹見泉石
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鷹見 泉石(たかみ せんせき、天明5年6月29日(1785年8月3日) - 安政5年7月16日(1858年8月24日))は、江戸時代の蘭学者であり、下総国古河藩の家老であった。
泉石は名を忠常、通称を十郎左衛門、字を伯直(はくちょく)と称した。泉石のほかに楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)と号す。ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いている。
古河藩士の家に生まれ、寛政8年(1796)、12歳で江戸詰となり、藩主に近侍、天保2年(1831)、41歳で家老職に就く。 譜代大名として、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中など幕府要職を歴任した土井利厚(としあつ)、土井利位(としつら)に近侍、これを補佐している。
対外危機意識の高まるなか、土井家の重臣という立場から早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、天文、暦数などの文物の収集に努め、また、川路聖謨(かわじとしあきら)、江川太郎左衛門などの幕府要人、渡辺崋山、桂川甫周などの蘭学者、箕作省吾(みつくりしょうご)などの地理学者、司馬江漢、谷文晁ら画家、砲術家 高島秋帆、海外渡航者の大黒屋光太夫、足立左内、潁川君平(えがわくんぺい)、中山作三郎ら和蘭通詞、オランダ商館長のスチュルレ(Johan Willem de Sturler)など、当時の政治、文化、外交の中枢にある人々と広く交流を持ち、幕政にあたる藩主の職務に貢献したことはもとより、洋学界にも大きく寄与した。
[編集] 鷹見泉石像
渡辺崋山の描いた「鷹見泉石像(東京国立博物館蔵)」は、西洋の画法も取り入れた近世画の傑作として、国宝に指定されている。天保9年(1838年)、泉石54歳のときのものである。
[編集] 鷹見泉石日記
『鷹見泉石日記』は、彼が職に就いた12歳から、60年間にもわたって自らの公務を中心に書き留められたものである。彼の交友の広さと、客観に徹した文章のために史料価値は高い。特に、藩主土井利位が大坂城代在職中に起こった大塩平八郎の乱については、彼自身が鎮圧に当たったこともあり、詳しく書かれている。