麻田藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
麻田藩(あさだはん)は江戸時代、摂津国豊嶋郡にあった藩。藩庁として豊嶋郡麻田(大阪府豊中市蛍池)に陣屋が置かれた。藩主は外様大名の青木氏。表高は1万2千石。
[編集] 概略
初代藩主青木一重は大坂の陣において豊臣方に付いた。冬の陣の際、和議の使者として駿府に下向した帰途、徳川方の捕虜となった。虜囚の身で大坂城落城の報に接し、剃髪した。元和元年(1615年)徳川家康に召し出され、摂津国・備中国・伊予国において1万2千石を拝領して立藩した。
その後、加増、分地、替地等により摂津国豊嶋郡豊嶋郷・川辺郡高平郷他および備中国小田郡・後月郡・浅口郡内十一ヶ村を領有した。
三代重正の時代の寛文年間(1661年-1673年)、黄檗宗仏日寺の伽藍建築に莫大な経費をつぎ込んだため、藩財政は窮乏した。酒や油などの必需品の領内生産の奨励、藩札の発行等の策を講じたが効果がなく、のち藩札の管理は領民に委ねられた。
明治4年(1871年)廃藩置県を迎え、麻田県となる。その後、大阪府、兵庫県などに編入された。
藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列せられた。
[編集] 歴代藩主
- 青木(あおき)家
外様 1万2千石 (1615年 - 1871年)
- 一重(かずしげ)〔従五位下・民部少輔〕
- 重兼(しげかね)〔従五位下・甲斐守〕
- 重正(しげまさ)〔従五位下・甲斐守〕
- 重矩(しげのり)〔従五位下・甲斐守〕
- 一典(かづつね)〔従五位下・甲斐守〕
- 一都(かづくに)〔従五位下・出羽守〕
- 見典(ちかつね)〔従五位下・内膳正〕
- 一新(かづよし)〔従五位下・美濃守〕
- 一貫(かづつら)〔従五位下・甲斐守〕
- 一貞(かづさだ)〔従五位下・甲斐守〕
- 重龍(しげたつ)〔従五位下・駿河守〕
- 一興(かづおき)〔従五位下・美濃守〕
- 一咸(かづひろ)〔従五位下・甲斐守〕
- 重義(しげよし)〔従五位下・民部少輔〕
- 維新後の当主
- 信光(のぶみつ)〔従五位下・子爵〕
- 蔚(しげる) 〔従五位下・子爵〕
- 淳一(じゅんいち)
- 速斗(はやと)