藩札
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藩札(はんさつ)とは、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣のこと。
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[編集] 藩札の概要
一般に、最初の藩札は、福井藩が1661年(寛文元年)発行である(異説数多くあり)。その後、特に西国の大名が多く発行した。しかし、それ以前に伊勢や大和で私札の発行が見られ、現存する日本最古の紙幣ともいわれる「山田羽書」(1610年)もこれに属する。当時は貨幣鋳造技術が未発達であり、土木工事などの賃金の支払いで小額貨幣が大量に必要になったときに、これらの私札が発行されたと考えられている。これらの私札が藩札への発行へとつながったと見られる。
藩札発行の目的は、自領内の貨幣の不足を補い、通貨量の調整機能であった。しかし、実際には藩札発行で得られる実通貨の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消をすることがほとんどであった。
藩札は藩の取り潰しがあれば紙くずになるリスクも存在し、藩の財政状況が悪化すれば藩札の信用力も落ちる結果につながる。藩札は表書きの金銀などの兌換保証が前提であったが実際には、藩にそれだけの正貨が用意できなかったところがほとんどである。初期のころは、藩自身が藩札会所などを設けて藩札の発行を行っていたが、領地内外の富裕な商人が藩札の札元となり発行を行い、その商人の信用によって藩札が流通した側面もあった。
藩札の流通は、藩が独自の流通規則を定め、藩札以外の貨幣の流通を禁じた藩もあったが、藩札と幕府貨幣の両方の流通を認めた藩も多くあった。流通範囲は、基本的に領内のみであったが、経済は藩領内で完結しているものではなく、各藩札の信用の程度に応じて、領外近隣でも通用していた。
江戸時代後期に入ると各藩の財政状況は悪化を辿り、不兌換の藩札の発行が行われ、藩札の兌換を巡る一揆も発生した。
1871年(明治4年)に明治政府が藩札の発行状況を調べたところ、全国の藩の約8割に当たる244藩、14の代官所、9の旗本領が紙幣の発行を行っていた。明治政府は同年の廃藩置県の機に藩札回収令を発布し、各地の交換相場による藩札回収を始めたが、実際にすべてが回収できたのは1879年(明治12年)6月であった。廃藩置県後、新通貨が整備されて普及するまでは、藩札に円銭厘の単位を示した大蔵省印が加印された藩札が寛永通寶銭などと共に使用された。
[編集] 藩札の種類
藩札は兌換保証の紙幣であり、藩札の交換対象となる物とその量が藩札に明示されていた。一般には、銀との兌換の銀札が最も種類が多かった。同じく貨幣との兌換の藩札としては、金札、銭札があった。
貨幣ではなく物品との兌換を明示したものもあり、この種のものでは米札が多い。また藩領内の特産品の専売制を推進するため、これら専売品の買上げに藩札を使用した例も多い。傘札、轆轤札、糸札、するめ札や昆布札というものもあった。
藩札は、和紙に木版刷りが基本であったが、すかしや着色紙などの偽造防止などを取り入れたものもあった。仙台藩により1784年(天明4年)に発行された仙台通宝のように貨幣形式のもの存在した。
[編集] 幕府の対応
幕府の藩札の対応は二転三転している。1705年(宝永2年)に藩札の調査が行われ、それを受けて幕府発行の貨幣の流通が滞るとして1707年(宝永4年)、すべての藩札の使用が禁止された(宝永の札遣い停止令)。実際には、幕府の行っていた貨幣改鋳の妨げになるとの思惑であった。
1730年(享保15年)に領国の石高が20万石以上であれば通用期間25年、20万石以下であれば通用期間15年などの条件付きで藩札の発行が再解禁された。この背景には、享保の改革で下落した米の価格があり、諸藩の財政を救済する目的であったといわれている。しかし1759年(宝暦9年)には新規の藩札発行が禁止され、その後、銀札以外の藩札の流通に制限が加えれた。このような幕府の藩札の取り締まりにも関わらず、財政難に苦しむ諸藩は幕府に無断で発行を続けた。
幕府自体は、貨幣流通にこだわり続けたが、幕末の1867年(慶応3年)に江戸横浜通用札、江戸および関八州通用札、兵庫開港札の三種類の金札紙幣を発行した。
[編集] 各藩の状況
[編集] 弘前藩
宝暦の飢饉で疲弊した陸奥国弘前藩の財政を立て直すため、勘定奉行の乳井貢が1756年(宝暦6年)に導入したのが標符という藩札類似のものであった。藩札と異なり標符は、通帳のようになっており商取引が書き込む形式となっている特徴があった。
商人は一家一業を原則とし、全ての商品と蓄えられた米や金銀を半ば強制的に藩に納めさせ、改めて標符と商品を下付した。商人はすべての商いを標符で決算され、利益の一割を商人の取り分として残りは藩に納めさせた。また、藩の家臣は禄高に応じた銀の額の標符が渡され、買い物毎に商人がその標符に取引を書き込む形式を取った。
標符はあまりにも急進的な試みであったため、2年足らずで廃止、乳井貢も失脚した。
[編集] 久保田藩
1753年から1754年(宝暦3年から4年)、出羽国久保田藩は凶作に見舞われ、幕府に願い出て藩札を銀札1匁につき銭70文の相場で発行した。当初10匁、5匁、3匁、2匁、1匁の5種類だったが後に、3分、2分の藩札も発行された。当初は順調であったが、凶作による米の値上がりを見込んで商人らが米を隠匿するなどして藩札による買い上げを拒否した。また藩は凶作のため正貨で米を買い集めなければならなくなり、兌換の資金が流出してしまった。混乱のうちに1757年(宝暦7年)に藩札は廃止された。
失敗の責任が問われ、家老や銀札奉行などが切腹や蟄居など重い処分が下された。また藩主よりの中下層の藩士が連座についたが、佐竹一族や古くからの家臣は加増されるなど派閥争いの様相も垣間見えた(佐竹騒動)。
[編集] 仙台藩
陸奥国仙台藩では幕府の許可を得て、藩内流通限定とした天明の大飢饉への救済を名目とした「仙台通宝」が天明4(1784)年11月より作られた。江戸時代の地方貨としては初めての物である。仙台通宝は当時藩内経済の要衝であった石巻の鋳銭場で作られた。「鋳銭場」の地名は現在の石巻市中心部に残っている。また、同時期に紙幣としての藩札も発行された。 藩札は、貞享・宝永・天明・升屋札・両替所札などがあげられる。
[編集] 会津藩
陸奥国会津藩では、藩財政窮乏の打開と藩士救済を目的として、元締役 長井九八郎の意見具申を容れる形で元禄13(1700)年に金札、翌年には銭札を発行した。しかし、町方、村方には受け入れられず、元禄16(1703)年までに金札、銭札共に通用を停止した。その一方で、会津藩の飛地領である播磨国加東郡小澤村では、江戸末期頃に銀札を発行した。 他に会津藩発行の貨幣としては、寛永通寶、天保通寶の密鋳銭、会津銀判などがある。
[編集] 明石藩
播磨国明石藩札は他藩からは少し遅れ、寛延3(1750)年11月より、この時点で藩主であった松平氏(親藩、越前松平家庶流)によって発行された。このとき発行された札は五拾匁、拾匁、壱匁、三分、弐分の銀札であり、藩の勘定奉行管轄の銀会所が取り扱った。 明治維新後、廃藩置県によって明石藩が明石県を経て飾磨県となった明治5年4月から明治6年12月までの間、新通貨に引き替えられた。引替率は、拾匁札は3銭9厘、壱匁札は4厘、弐分札は1厘であった。
[編集] 秋月藩
筑前国秋月藩は幕府から独立した藩として公認されてはいたが、福岡藩の分家として立藩した支藩である関係で、軍事・財政面で相互援助が行われていた。このため、藩札も相互に領内流通を認めていた。秋月藩の藩札発行は、福岡藩で発行された翌年の元禄17(1704)年からであるが、各藩に下された幕命により、わずか4年で回収された。しかし、幕許によって藩札発行が認められた享保15(1730)年には早くも藩札の発行を再開している。明治維新後、新通貨に引き替えられた際の引替率は、五匁札は4銭2厘、壱匁札は8厘、弐分札は2厘であり、福岡藩よりも高い相場であった。
[編集] 赤穂藩
元禄赤穂事件の際に、家老の大石良雄がすぐさま藩札を額面の6割交換という高い率の銀正貨で回収し、城下の混乱を抑えた話はつとに有名である。播磨国赤穂藩の藩札は1680年(延宝8年)に初めて発行されたが、領内の通用を藩札のみに限り、正貨の流通を禁じていたため、この時の交換比率は大きな問題であった。また、赤穂藩は塩の生産と専売により財務的に耐えられた点もある。浅野統治時代の赤穂藩の藩札はことのとき、ほとんど回収されてしまったため、現在は数枚が残る程度で、古銭としては高額で取引されている。
なお、後に赤穂に入封した永井氏、森氏もまた藩札を発行した。永井氏の札は3年余りとごく短期間の統治のためもあり、現存札は確認されていない。森氏の札は長期にわたって発行されたため、多様な札が残っている。赤穂藩は領地が山に囲まれた地形のため、領外との取引を行う商人などを除き、領内での藩札の専一流通が確実に行われていたことは多くの史料によって確認されている。名目上、藩札の専一流通を規定した藩は数多いが、赤穂藩ほど徹底していた例は稀である。
[編集] 麻田藩
摂津国麻田藩は1万石程度の小藩としては例外的に、かなり早期の延宝5(1677)年3月から藩札を発行した。これは、麻田藩領の多くが経済の中心地であった大坂に程近い摂津国豊嶋郡(豊嶋郷)、川辺郡(高平郷)にあったことによるものと考えられる。幕命により宝永4(1707)年に一旦は発行を中止したが、その後、幕許を得て宝暦3(1753)年7月に再度発行し、明治維新後まで継続した。 なお、麻田藩は備中国にも飛地領を有し、同地でも藩札を発行した。
[編集] 尼崎藩
摂津国尼崎藩は、経済活動の盛んな西宮、兵庫津を領し、更に大坂、伊丹に囲まれるという地理的条件のため、早期に藩札が発行された。尼崎藩札として確実なものは油屋庄右衛門を札元とした寛文10(1670)年発行の札がはじめである。宝永の札遣い停止令を経て、享保15(1730)年に西宮の町人を札元に登用した銀札を発行した。尼崎藩での銀札の引き請けは、家屋敷・田畑を抵当に多額の資金を無利子で得るという形式をとっていたため希望者が多く、札元は数十人に上った。
明和6(1769)年に尼崎藩の経済の根幹であった西宮と兵庫津を含めた灘筋の村々が幕府領として上知され、藩財政に対する不安から藩札流通にも多大な影響が見られた。このため、庄屋層に管理を託していた旧札を回収して、新引替人による統一的な新札発行に切り替え、文政元(1818)年には引き替えは泉屋利兵衛、樋口屋十郎右衛門、尼崎引替役所の3か所となった。しかしその後も数度新・旧札の切り替えが行われ、札元も入れ替わった。
明治初期には銀札は銭札に切り替えられ、金札も併せて発行された。明治新政府回収の際の引替率は、金札1両は1円、銭札五百文は4銭、百文は8厘であった。
[編集] 安志藩
播磨国安志藩は、近隣の大藩である姫路藩が文政3(1820)年に札使いを再開したことに影響を受け、文政5(1822)年に幕許を受けて銭札(銭匁札)を発行した。額面は十匁、五匁、一匁、三分、二分であり、後に同額面の銀札を併せて発行した。同藩では、溜池普請、洪水被害を受けた村々への救済が藩札によって行われたことが史料に記されている。同藩が発行した特殊な藩札として、額面が郷人足一人、半人の郷人足札、三百目から二十目までの銀建ての高額面の札である銀方札座札がある。明治4年より新通貨に引き替えられた際の引替率は、銀十匁札は1銭、銭十匁札は9厘、壱匁札は銀札、銭札共に1厘であった。
[編集] 小野藩
播磨国小野藩では江戸大火による上屋敷の類焼、地震被害等で財政が逼迫し、安政3(1856)年より、銀札として五文目(匁)、一文目、二分、一分の4種を引替会所が発行した。また明治維新後、銭札として一貫文、五百文の2種を発行した。銭札には偽造防止のため神代文字が描かれている。明治4年より新通貨に引き替えられた際の引替率は、五匁札は1銭3厘、壱匁札は3厘、弐分札は2厘であった。
[編集] 高槻藩
摂津国高槻藩では、財政基盤が脆弱で、国産品の専売制も困難であったため、借入、頼母子講、御用金といった起債の形で財政難の対策としており、周辺の藩のような藩札の積極的な発行は明治元~2年まで待たねばならない。江戸期には、倹約を目的として、家中の贈答用に発行された銀札の音物(いんもつ)札のみが発行された。音物札はあらゆる贈答の機会に使用することが義務付けられていた。交付の際に額面の2%の手数料が必要であったが、正銀への交換は無料であった。
[編集] 三草藩
播磨国三草藩は1万石の小藩である。領内の村々は特産品が乏しく、また藩主が江戸在府で領内統治も幕府の統制力が強かったため、札遣いの盛んな播磨にありながら、藩札の発行は幕末の安政4(1857)年とかなり遅い。このとき、銀札として五匁、一匁、三分、二分と、銭札(いわゆる銭匁札)として五匁、一匁、三分、二分、一分の札が発行された。発行高はあわせて980貫目であった。この後に公式の藩札摺り立ては行われていない。これらの札は明治3年の引き揚げまで通用した。発行高が少なく、他藩と比べて迅速に引き揚げが行われたため、大蔵省の円・銭・厘の単位の加印が押された札は発行されていない。
[編集] 備中松山藩
備中国松山藩は、元禄年間に当時の藩主であった安藤氏が発行し、次の領主であった石川氏もこれに倣った。延享元年(1744年)に新たに板倉氏が入封すると、直ちに五匁、一匁の銀札を発行したが、国内の荒廃などによって表高5万石に対して実収2万石しかなかった同藩財政は逼迫して天保年間には準備金が底を尽きた上に更に大量の五匁札を発行した。このため、藩札の価値は大暴落して財政を却って悪化させる原因となった。これに対して藩執政に就任した山田方谷は敢えて藩札の廃止と3年間に限って額面価格での引き取りを行う事を表明した。その結果藩札481貫110匁(金換算8,019両)が回収され、未発行分の230貫190匁(同3,836両)と合わせた合計711貫300匁(同11,855両、当時の藩財政の約1/6相当にあたる)が、方谷の命令によって嘉永5年9月5日領内の高梁川にある近似川原(ちかのりがわら)に集められた藩士・領民の目前で焼却処分された。その後方谷は五匁、十匁、百匁からなる「永銭」と呼ばれる額面の新しい藩札を発行して、準備金が不正に流用される事の無い様に厳しい管理下に置いた。そのため、藩札の信用は回復される一方、その準備金の適切な投資・貸し出しによって裏打ちされた殖産興業は成功を収めて、10万両と言われた藩の借財は数年で完済されて、藩札も額面以上の信用を得ると言う好循環を招いた。