黒田直静
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黒田 直静(くろだ なおちか)は、上総久留里藩の第7代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 文化7年3月15日(1810年4月18日) | |||
死没 | 嘉永7年4月26日(1854年5月22日) | |||
別名 | 燐也(幼名)、三五郎(通称) | |||
戒名 | 天倫院専徳 | |||
墓所 | 埼玉県飯能市の能仁寺 | |||
官位 | 従五位下、豊前守 | |||
藩 | 上総久留里藩主 | |||
氏族 | 黒田氏 | |||
父母 | 父:黒田直方、養父:黒田直侯 | |||
兄弟 | 黒田直明、黒田直静、玄之助、 黒田直剛、曲淵直端、黒田直古、 神田直生 |
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妻 | 正室:秋田孝季の娘 | |||
子 | 加納久恒、養子:黒田直和 |
文化7年(1810年)3月15日、第5代藩主・黒田直方の妾腹の三男として江戸下谷邸で生まれる。父が文化9年(1812年)9月13日に隠居したときには幼少だったために家督を継げず、文政3年(1820年)6月、第6代藩主・黒田直侯の養子となり、文政6年(1823年)10月21日の直侯の隠居により、家督を継いで第7代藩主となった。文政9年(1826年)12月、従五位下、豊前守に叙位・任官する。
天保11年(1840年)2月、大坂加番に任じられる。藩政においては天保13年(1842年)11月に藩校・三近塾を創設して藩士の教育化を図る一方で、度重なる外国船襲来に備えて大砲を鋳造するなどの軍備強化にも務めている。しかし弘化3年(1846年)には藩領である武蔵・上野領内で利根川の氾濫などにより大規模な被害を受けるなど、藩財政は苦しかった。
嘉永7年(1854年)4月26日に死去。享年45。後を養子の黒田直和が継いだ。
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