久留里藩
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久留里藩(くるりはん)は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に存在した藩。
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[編集] 藩史
小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政の嫡男・大須賀忠政(松平忠政)に久留里3万石を与えた。これが久留里藩の立藩である。慶長6年(1601年)2月1日、忠政が遠州横須賀藩に移され、翌年7月に土屋忠直が2万石で入った。忠直は天正10年(1582年)、織田信長の武田攻めで最後まで武田氏に忠誠を尽くし、『片手千人斬り』の異名をとった勇将・土屋昌恒の子である。忠直は慶長17年(1612年)4月9日に死去し、後を土屋利直が継いだ。ちなみに利直のとき、後に正徳の治という幕政改革を行なったことで有名な新井白石とその父・新井正済が仕えている。利直は延宝3年(1675年)閏4月24日に死去し、後を土屋直樹が継いだ。しかし直樹は延宝7年(1679年)8月7日、狂気を理由に改易されてしまった。ただし、先君らの功績を評価されて、土屋氏は直樹の長男の家系が3000石の旗本として存続した。なお、土屋氏の改易により、久留里藩は廃藩となった。
寛保2年(1742年)7月28日、上野国沼田藩から黒田直純が3万石で入り、再び久留里藩が立藩した。初代藩主・直純は土屋氏改易のときに廃城となっていた久留里城の再建や新規の家臣召し抱え、城下町整備など藩政の基盤固めに尽力し、大坂加番や奏者番などを歴任した。しかし第3代藩主・黒田直英の頃から藩財政の困窮化が深刻となり、このために倹約や俸禄制度改革、三割の法制定などによる藩政改革が行なわれたが、効果は無かった。第7代藩主・黒田直静のとき、藩校・三近塾が創設された。しかし幕末期は相次ぐ異国船の出没に備えての海防や歴代藩主の多くが大坂加番に任じられたため、そのための出費が著しく、財政は悪化の一途をたどった。戊辰戦争のとき、最後の藩主・黒田直静は新政府軍に帰順した。翌年の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で久留里藩は廃藩となった。その後、久留里県を経て、木更津県に編入されたのである。 また、明治末期に旧藩主の黒田家の依頼によって、家老の一族、森勝蔵によって藩史が編纂された。「久留里藩制一班」「雨城廼一滴」がその書物であり、譜代小藩の内政が細かく記されている貴重な郷土資料となっている。この森氏は黒田直純が下館城主であった時代から仕える黒田家の重臣で、その祖は、津山藩主、森氏に由来する一族である。
ちなみにこの黒田氏は、筑前国福岡藩で有名な黒田如水・黒田長政父子の黒田一族とは別の一族である。
[編集] 歴代藩主
[編集] 大須賀(松平)(おおすが(まつだいら))家
3万石。譜代。
- 大須賀忠政(ただまさ)<従五位下。出羽守>
[編集] 土屋(つちや)家
譜代。2万石。
[編集] 廃藩(はいはん)
[編集] 黒田(くろだ)家
3万石。譜代。
- 黒田直純(なおずみ)<従五位下。大和守>
- 黒田直亨(なおゆき)<従五位下。豊前守>
- 黒田直英(なおひで)<従五位下。和泉守>
- 黒田直温(なおあつ)<従五位下。和泉守>
- 黒田直方(なおかた)<従五位下。豊前守>
- 黒田直侯(なおよし)<従五位下。豊前守>
- 黒田直静(なおちか)<従五位下。豊前守>
- 黒田直和(なおやす)<従五位下。伊勢守>
- 黒田直養(なおたか)<従五位下。筑後守>