9月30日事件
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9月30日事件(あるいは、9・30事件)とは、1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデターのことである。クーデターを起こした国軍部隊は権力奪取に失敗しているので、正しくはクーデター未遂事件というべきであるが、一般に、未遂事件後のスハルトによる首謀者・共産党勢力の掃討作戦に関連する一連の事象全体を指して「9月30日事件」と総称している。
事件の背景として、国軍と共産党の権力闘争、スカルノの経済政策の失敗にともなう国内混乱、国際政治の舞台におけるインドネシアの孤立などがあった。この事件を契機として、東南アジアのみならず当時の非共産圏において最大の党員数を誇ったインドネシア共産党は壊滅し、初代大統領スカルノは失脚した。
インドネシア国内では「9月30日運動 Gerakan Tiga-puluh September」、略して「G-30-S」という。また、それをナチスのゲシュタポにかけて、「ゲスタプ(Gerakan September Tiga-puluh)」ともいわれる。
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[編集] 背景
[編集] 経済政策の失敗
インドネシア建国の父となったスカルノは、国民をオランダの植民地支配から解放したという点では、中国の毛沢東と同格の英雄だった。その一方で、植民地時代の遺産の完全否定は、同国に経済的な疲弊をもたらした。その点でも、大躍進を推進して国内を大混乱に陥れた毛沢東と対比することが可能である。
旧オランダ領東インド時代のジャワは、世界でも有数の砂糖生産地であり、その輸出により経済が成立していた。こうしたモノカルチャー経済に大きく依存していた国民経済は世界市場の変動によって左右されやすく、政治的独立を達成したスカルノにとって次なる課題は、そうした植民地経済の遺産を清算し、経済的独立を達成することであった。
スカルノは、外国企業の資産を接収し、新たな外資の導入も禁止することで、外資の排除を図った。また、植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華人を差別し、さらにさまざまな輸入品目の規制を図ることで地場産業の振興を図り、自立的な経済の樹立を目指した。しかし、これらの経済政策は、深刻な食糧不足とインフレ率数100%に達する末期的な経済状況を生み出してしまった。
[編集] 外交上の孤立
スカルノ政権による外資凍結、外国企業接収は、それらに利益を有していた欧米諸国からの非難を呼び起こし、それまでインドネシアの独立を支持していたアメリカもスカルノに対して不快感を強めていった(ここからスカルノ政権の転覆を図るためにアメリカのCIAが9月30日事件を策謀したという説が出てくる)。
1961年、イギリス政府の肝いりでマレーシア連邦が建国されると、スカルノはこれを旧宗主国による植民地主義の復活であるとして厳しく非難、国軍部隊を派遣して「マレーシア粉砕」を高らかに宣言した。これがさらなる国際的非難を招くと、国際連合からの脱退を敢行し、インドネシアの国際的孤立はますます深まっていった。
こうした実行を伴ったスカルノの外交パフォーマンスには、多分に国内向けのナショナリズム・アピールという側面があり、国民の経済的困窮の不満を外に向けて発散させるという動機があったことも見逃せない。そうしたスカルノの姿勢に対して、国内でも軍主流派やエコノミスト、一部政党政治家らは危機感を強めており、挙国一致して国難を乗り越えようとするスカルノの「指導される民主主義」末期には、国内各勢力の分裂の契機が内包されていた。
[編集] 国軍vs共産党
「指導される民主主義」を標榜していたスカルノは、国家の危機的状況を乗り切るために民衆のナショナリズムを絶えず鼓舞していた。彼がさかんに唱えたのは「ナサコム NASAKOM」というスローガンである。これは、NAS=Nasionalisme(インドネシア国民党に代表されるナショナリズム)、A=Agama(ナフダトゥル・ウラマーを代表とする宗教組織)、KOM=Komunisme(共産主義)の三者一体によって挙国一致の翼賛体制を支えるスローガンであった。
民衆にナショナリズムを高揚させる一方で、スカルノが有力な支持基盤としたのはインドネシア共産党だった。植民地時代以来、時の政権に対して対決的姿勢を示し続けてきた共産党であったが、1953年のアイディット(Dipa Nusantara Aidit、1923年‐1965年)の書記長就任以来、合法的活動・大衆路線を採用し、その傘下の各種組織とともに、スカルノ政権下で順調に党勢を伸ばした。
一方、独立戦争後に内部対立で権力が分散していた国軍は、組織の合理化など一連の改革によって組織的求心力を強めることに成功し、国政上においてもその存在感を増しつつあった。スカルノはこの国軍を牽制するために共産党に接近し、両者のバランサーとして振る舞うことによって、権力を維持しようとした。
しかし、スカルノの下での共産党と国軍の主導権争いという構図は、スカルノ自身の健康悪化という不安要素とともに、両者の緊張関係が最高潮に達したとき、何かが起きるという暗い予感を内外に印象付けるものであった。
[編集] 事件の推移
(9月30日事件の詳細な経緯については、スハルト政権崩壊後の今日においても、未だ闇の中に包まれている。事件後、インドネシア政府による公式見解としては、同情報省が1965年12月に発表したニュースリリースによる説明があるが、事件の真相を全面的にこれに求めることはできない。そういった諸々の情報不足にもとづきながら執筆された二次資料も適宜参照しながら以下の記述をすすめるが、慎重な検討を要する箇所もあるので留意されたい)
まず、1965年9月30日(木曜日)深夜、首都ジャカルタにおいて、大統領親衛隊第一大隊長のウントゥン Untung(1926年 - 1966年)中佐率いる部隊が軍事行動を開始した。翌10月1日未明までには、この一団が陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ局(RII)を占拠し、「9月30日運動司令部」と名乗って、インドネシア革命評議会の設置を宣言した。
殺害されたのは、アフマド・ヤニ陸軍司令官(中将)、R・スプラプト陸軍司令官代理(少将)、ハルヨノ・マス・ティルトダルモ陸軍司令官代理(少将)、スウォンド・マルマン陸軍司令官補佐官(少将)、D・I・パンジャイタン陸軍司令官補佐官(准将)、ストジョ・シスウォミハルジョ陸軍法査察官、の6人(国防治安相・国軍参謀総長であったナスティオン大将も襲撃を受けたが辛くも殺害を免れた)。革命評議会は、これらの陸軍将校が「将軍評議会」を結成して政権転覆のクーデターを準備しており、それを阻止するために決起した、と説明した。
陸軍の主だった首脳が不在となったことにより、陸軍最高位の地位に立つことになった戦略予備軍司令官スハルト少将は、速やかに指揮下の部隊を展開して首都の要所を制圧し、運動に呼応した共産党傘下の共産主義青年団(プムダラヤット)や共産主義婦人運動(ゲルワニ)も排除することに成功し、10月2日には混乱に終止符を打った。
そして10月3日、ジャカルタのハリム空軍基地近くのルバン・ブヤアで、古井戸に投げ込まれていた6将軍の遺体が発見され、翌日その葬儀が大々的に行なわれた。その模様を知らされた国民は、事件の残忍さに震撼した(以後、スハルト政権下では毎年10月1日、このときの模様をテレビ特番で放送し、共産党の残忍さを国民に知らしめ、また事件後の「共産主義者狩り」を思い出させることによって、「恐怖の記憶」を定着化させていた)。
[編集] スカルノからスハルトへ
事件当日、スカルノはクーデター部隊の本拠地となったハリム空軍基地にいて、その直後ボゴール宮殿に身を移しているが、それまで共産党に肩入れしてきた経緯もあって、事件への関与を疑われる厳しい立場に追い込まれた。スハルトと会談したスカルノが、事件後の「治安秩序回復」に必要な全ての権限をスハルトに与えたことは、そうした立場での交渉力の弱さを突かれたものと思われる。そのスハルトへの権限委譲は、後にスカルノ自身の政治生命を奪う致命傷となった。
当時のスハルトは、インドネシア独立戦争や西イリアン解放作戦などで野戦指揮官としての評価を得て陸軍内で昇進を続け、1963年5月、陸軍の精鋭部隊である戦略予備軍司令官に就任、1965年1月には「マレーシア粉砕」作戦司令部副司令官にも任命されていた。一見、政治的野心からは程遠い、堅実な軍人と映ったのか、スカルノはスハルトを重用した。
しかし、9月30日事件は両者の力関係を完全に逆転させた。スカルノから治安秩序回復の全権委任を得たスハルトは、クーデター首謀者とされたウントゥンや事件に関与した共産主義者を捕らえて殺害し、それとの関与を疑われた一般市民も多数殺害した(インドネシアの国民的作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールもこのとき拘束され、以後長い獄中生活を強いられることになった)。
このように共産主義勢力を物理的に破壊していく過程で大きな役割を果たしたのは、「共産主義者狩り」に動員された青年団、イスラーム団体、ならず者集団であった。さらにスハルトは、こうした市民団体を動員して、事件についてのスカルノの責任を追及する街頭示威行動を取らせ、スカルノに大統領辞職の圧力をかけた。
そして1966年3月11日、スカルノはスハルトに大統領権限を委譲する命令書にサインして、インドネシアの政変劇は終幕した。この「3月11日」は以後インドネシアで特別な日とされ、スカルノが署名した「3月11日命令書 Surat Perintah Sebelas Maret」は「スーパースマール Supersemar」と呼ばれて、スハルト政権期の大統領指名選挙を行なう国民評議会はこの日に開催されていた(中部ジャワのスラカルタには3月11日大学という大学まである)。
以上の事件の詳細について、スハルト退陣後の今日に至っても明らかとはされていない。スハルトがすでに病身の身であり、彼の口からこの事件について語られることは困難であると思われる。また、最後に言及したように、事件後の「共産主義者狩り」に動員されて多数の一般住民の殺害に関与したものと思われる人々の「過去の清算」が難しいことも、スハルト以後の各政権がこの事件の詳細を明らかにしたがらない理由であるとも予想される。
[編集] 参考文献
- 尾村敬二 『インドネシア政治動揺の構図』、有斐閣、1986年
- 加納啓良 『インドネシア繚乱』、文春新書、2001年
- 白石隆 『スカルノとスハルト - 偉大なるインドネシアをめざして』、岩波書店〈現代アジアの肖像11〉、1997年
- 田口三夫 『アジアを変えたクーデター インドネシア9・30事件と日本大使』、時事通信社、1984年
- 吉原久仁夫 『東南アジアでよくなる国悪くなる国』、東洋経済新報社、1999年
- Anderson, Benedict R.O'G. and Ruth McVey, The Preliminary Analysis of the October 1, 1965, Coup in Indonesia, Cornell Modern Indonesia Project, 1971
- Robinson, Geoffrey, The Dark Side of Paradise : Political Violence in Bali, Cornell University Press, 1995
[編集] 関連項目
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