Il-10 (航空機)
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Il-10(イリューシン10;ロシア語:Ил-10イール・ヂェースャチ)は、ソ連のイリユーシン設計局が開発した軍用機。ソ連を中心に「重シュトゥルモヴィーク」(Тяжелый штурмовик)として使用された。戦闘機なみの空中戦能力を有していたことから、「戦闘攻撃機」(Ударный истребитуль)と呼ばれることもある。
[編集] 概要
ソ連軍では、大祖国戦争開戦以来Il-2を主力シュトゥルモヴィークとして運用してきた。しかしながら、多くの戦果を挙げたIl-2も、敵の戦闘機や防空能力の向上により、飛行速度、防御等の不足が隠せなくなってきた。そこで各設計局にIl-2の後継機の開発が求められたが、イリユーシン設計局では、戦闘機として開発していたIl-8を基に新たな機体を開発することとなった。設計された機体は外見は前任機のIl-2に似ていたが、実際には全く別の航空機であり、Il-8から受け継いだ高度な空戦能力は、当時のソ連主力戦闘機La-7と互角のものであった。
Il-10は新たな主力シュトゥルモヴィークとなるべく生産が開始されたが、そのペースは遅く、大祖国戦争中にはIl-2ほどは用いられなかった。また、1945年5月の終戦に伴い総生産予定数も大幅に削減された。また、戦後しばらくはソ連軍の主力シュトゥルモヴィークとして使用されたが、1940年代後半のジェット機の台頭によりレシプロ機であったIl-10は旧式機と見られるようになってしまった。Il-10はハンガリー、ブルガリア、ポーランド、チェコスロヴァキアなどに輸出され、特にチェコスロヴァキアではB-33の名称でライセンス生産が行われた。B-33も東欧や中東に輸出された。また、ソ連では主翼形状を改設計するなどしたIl-10M(Ил-10М)が開発され、1951年に初飛行を実施、生産・配備された。
Il-10は第二次世界大戦ではIl-2の陰に隠れてあまり大きな働きはしなかったように思われているが、戦後はいくつかの戦闘で注目を集めた。イエメンの内戦でもB-33が対地攻撃任務に使用されたが、それより遙かに有名なのは、朝鮮戦争において中華人民共和国軍機や朝鮮民主主義人民共和国軍機として使用されたことである。この戦争では、Il-10は国連軍の戦闘機と互角の空中戦を行うなど対地攻撃任務以外にもいくらかの活躍を見せた。
Il-10は1950年代には第一線を退いたが、ソ連ではその後継機に当たるような機体は量産されなかった。Il-10と同時期に開発されたアメリカ合衆国のA-1スカイレイダー攻撃機が朝鮮戦争に続いてヴェトナム戦争でも大きな働きを残し、その後継機といえるジェット攻撃機も多数開発されたのと比べると、旧式化したジェット戦闘機を対地攻撃任務に回していたソ連空軍の空対地攻撃に対する姿勢には疑問が持たれる。ソ連では1960年代、「マッハ2の時代」になってからようやく攻撃任務専用に生産されたSu-7を配備するが、これも充分な能力を持っていたとは言い難いものであった。また、この機体は「シュトゥルモヴィーク」ではなく「イストリェビーチェリ・ボムバルヂローフシチク」(戦闘爆撃機)であった。Il-10の後継機といえるシュトゥルモヴィークは、1975年に初飛行を行い現在ロシア空軍の主力攻撃機となっているSu-25まで生産されることはなかった。
ジェット機時代初期、世界では新しい技術に対する過度の期待からレシプロ機に対する無条件の蔑視が行われるという潮流があり、Il-10もその犠牲となったと言える。後知恵ではあるが、同時期のA-1が1970年代まで第一線で大きな働きをしているのと比べると、Il-10の退役は早計であったという意見もある。
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