にいがた総おどり
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にいがた総おどり祭(にいがたそうおどりまつり)は、毎年9月中旬に新潟県新潟市内で開催される県内最大の踊りの祭。
新潟がまだ、「船江の里」と呼ばれていた約300年昔、新潟に三日三晩踊り明かす祭があった。 貧困と災害に見舞われ過酷な地に住む庶民が一年の五穀豊穣と無病息災を願い、祈りを込め踊り明かしたという。 当時の様子は新潟の初代川村奉行が描かせた「あまの手振り」絵巻物に見ることが出来る。町中の橋の上で小足駄をはき、樽砧のリズムに合わせて乱舞する自由な踊りの祭であった。
明治に入り、その祭りは祭禁止令により無くなったが、当時の自由な踊り祭を復活させようと2002年に新潟商工会議所をはじめ若者達が中心となり、市民県民が一丸となって「にいがた総おどり」祭の立ち上げを行う。 様々なジャンルの踊り団体が参加し、願いと祈りを込め自由にアレンジされた踊りの祭典である。現在新潟の踊り文化を表現する華やかな祭となっている。
祭開催期間中に繰り広げられる「下駄総踊り」は、小足駄を履き、樽砧のリズムに合わせて踊る様は、約300年前の当時の祭りの賑やかさを見ることが出来る。 下駄総踊りは、飛び入りでの参加も可能。
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[編集] 参加ルール
「心を込めて踊ること」これだけがにいがた総おどりのルール。 民謡のアレンジや、1団体の参加人数、進行形式での演舞、などの縛りは1つもない。 誰でも表現を楽しみ、参加踊ることが出来る。
[編集] 下駄総踊り
2005年第四回にいがた総おどりで初めて発表となった踊り。
新潟がまだ、「船江の里」と呼ばれていた約300年昔、新潟に三日三晩踊り明かす祭があった。 貧困と災害に見舞われ過酷な次代に暮らす当時の庶民が一年の五穀豊穣と無病息災を願い、祈りを込め踊り明かしたという。 当時の様子は新潟の初代川村奉行が描かせた「蜑(アマ)の手振り」絵巻物に見ることが出来る。当時張り巡らされ堀に架かる74ある橋桁の上に小足駄をはき、新潟 樽砧のリズムに合わせて乱舞する自由な踊りの祭であった。
明治 に入り、その祭りは祭禁止令により無くなったが、当時の自由な踊り祭を復活させようと祭開催期間中に繰り広げられる「下駄総踊り」は、小足駄を履き、樽砧のリズムに合わせて踊る様は、約300年前の当時の祭りの賑やかさを見ることが出来る。 下駄総踊りは、指定の連などは無く、個人参加での参加が中心。
[編集] 小足駄
一般に良く知られる二枚歯の下駄とは異なり、歯の部分が溝に堅木を差し込んで作られることから「差し歯」とも呼ばれる。 そのうち、雨用に履くものを歯の高い「高歯、中歯」といい、歯の低いものは晴天時に履くことから「日和、日和下駄」などともいわれている。関西地方では千利休が常用したといわれ、「利休下駄」などともいわれる。 新潟では雪や雨が多い為、歯を高くして好んで履かれていた。
現在この下駄を手仕事で作れる職人は全国に2、3人しかいない。そのうちの一人が新潟市巻の小林履物店の3代目小林哲男さんであり、下駄総踊りの小足駄を一手に引き受け制作する。下駄総踊り用の小足駄は、激しい踊りに耐えられるよう通常より手間をかけ、踊り用に検討された40もの工程を経て作られる。
[編集] 蜑の手振り
初代新潟奉行・川村修就が新潟の風土を描かせた絵巻物で、中には6種類の絵が描かれている。下駄総踊りの参考文献となっているのはその中の「盆踊り」であり、当時の新潟の人々が自由に仮装をして、足に小足駄を履いて踊る様子が描かれている。