アウトドローモ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ
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アウトードロモ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ(Autodromo Enzo e Dino Ferrari)は、イタリアのイモラ市にあるモータースポーツのサーキット。通称イモラ・サーキット。名称は、フェラーリ創業者のエンツォ・フェラーリとその息子のディーノを記念してつけられた。 尚、Autodromoを「アウトドローモ」とする日本語表記が一般に流布しているが、イタリア語のアクセントを考慮すると「アウトードロモ」と表記するのが正しい。
F1のレースが、1980年にイタリアGP、1981年から現在に至るまでサンマリノGPとして開催されている。もともと多数の高速コーナーをもつサーキットであったが、1994年のサンマリノGPで大事故が多発したことによりレイアウトが変更され、現在は中速テクニカルコースとなっている。このコースはドライバーにも概ね不評であり、ファンの中にもかつての高速バトルを懐かしむ声が多い。また、2007年より1国1開催を遵守することとなったため、開催取り止めとなった。
目次 |
[編集] データ
- 公式オープン:
- 総工費:
- 所在地:イタリア、イモラ市
- 運営:
- 総面積:??
- 収容観客数:??
- コース1周:4.933km
- 最長直線距離:?? km
- カーブ数:17(右:7、左:10)
- カーブ:最小半径 ?? m
[編集] レコード
- F1 1'20'411'(ミハエル・シューマッハ、フェラーリ、2004年)
[編集] タンブレロ・コーナー
メインストレートのすぐ後に控えるコーナー。当初は緩やかに左にカーブするコーナーであり、マシンはアクセル全開で通過していた。しかし、1987年にネルソン・ピケがフリー走行中にクラッシュ、1989年にはゲルハルト・ベルガーがレース中にクラッシュしマシンが炎上するなど、テクノロジーの進化により危険なコーナーへと変貌していった。そして1994年、アイルトン・セナがレース中にクラッシュ、死亡するに至る。
これらのクラッシュは全てタンブレロを直進してコンクリート壁に激突するという共通点を持っていた。しかしこのコーナーのすぐ側には小川が流れており、安全のためのスペースを確保できなかった。そこでやむなく高速コーナーを廃止し、1995年のサンマリノGPからはシケイン状のコーナーに姿を変えた。
[編集] 悪夢の1994年
1994年にこの地で開催されたサンマリノGPは、関係者から悪夢の週末と呼ばれている。
金曜のフリー走行において、ルーベンス・バリチェロがリヴァッツァでコースアウト、縁石で跳ね上がったマシンはタイヤバリアに乗り上げ横転する。幸いバリチェロは鼻骨骨折の軽傷で済むが、これが悪夢の端緒となった。
土曜午後の予選、ローランド・ラッツェンバーガーのマシンのリアウイングが脱落しヴィルヌーヴ・コーナーでコントロールを失いコンクリート壁に激突し、マシンは惰性でトサ・コーナまで滑っていくという大クラッシュが起こる。この事故によりラッツェンバーガーは死亡。F1レースウィークにおいては1982年のリカルド・パレッティ以来、テストを含めると1986年のエリオ・デ・アンジェリス以来の死者を出してしまった。
さらに悪夢は続く。ラッツェンバーガーのための26番グリッドが空席のままスタートしたレースだが、スタートに失敗したJ.J.レートのマシンにペドロ・ラミーがマシン後部より追突。壊れたパーツが観客席まで飛散し、観客数名が怪我を負う。このクラッシュによりセーフティカーが先導することになるが、この先導が解かれた直後にアイルトン・セナのクラッシュが発生する。
セナが病院に搬送(レース終了後セナは死亡)された後、レースは再開。が、途中ピットインしたミケーレ・アルボレートのタイヤが外れ、ピットロードを跳ね回る。このタイヤの直撃によりピットクルーが重傷を負った。
何かに呪われたようなこの週末は、それまでの『F1安全神話』を完全に崩壊させ、新たなドライバーの安全確保へと繋がっていった。(何故かこの日は赤旗提示後にエリック・コマスのマシンがピットアウトし、レーシングスピードで「現場」まで走ってしまうという前代未聞のトラブルも起きた。)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
Autodromo Internazionale Enzo e Dino Ferrari di Imola(イタリア語)