ミケーレ・アルボレート
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1981 - 1994 |
所属チーム | ティレル, フェラーリ, ラルース, アロウズ, フットワーク,ローラ, , ミナルディ |
出走回数 | 194 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 5 |
通算獲得ポイント | 186.5 |
表彰台(3位以内)回数 | 23 |
ポールポジション | 2 |
ファステストラップ | 5 |
F1デビュー戦 | 1981年サンマリノGP |
初勝利 | 1982年アメリカGP |
最終勝利 | 1985年ドイツGP |
最終戦 | 1994年オーストラリアGP |
ミケーレ・アルボレート(Michele Alboreto, 1956年12月23日 - 2001年4月26日)はイタリアミラノ出身の元F1ドライバー。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] F1前、ティレル時代
1978年にイタリアF3に参戦を開始。1980年ヨーロッパF3チャンピオンを経て、1981年ティレルよりF1デビュー。この年はノーポイントに終わったが、1982年には第2戦ブラジルGPで4位に入り、初入賞。続くアメリカ西GPでも4位に入ると、第4戦サンマリノGPでは3位入賞、3戦連続のポイント獲得と共に初表彰台を達成した。その後何度かの入賞を経て、最終戦アメリカGPではF1初優勝を飾った。
翌1983年にも、第7戦デトロイトGPで優勝し2勝目。この勝利は、フォード・コスワース・DFVエンジンの最後の勝利(通算156勝目)でもある。これを含め入賞は2回、リタイヤは15戦中8回という不本意とも言える結果だったが、ターボ化の波に乗り遅れ、資金面でも貧弱なティレルでの活躍は高く評価された。そしてエンツォ・フェラーリに才能を認められ、フェラーリへ移籍。久々のイタリア人フェラーリドライバー誕生に、地元の期待は高まった。
[編集] フェラーリ時代
チームのエースドライバーとして加入したアルボレートは、1984年第3戦ベルギーGPで初のポールポジションを獲得、決勝でも独走での優勝を飾る。この年は16戦中8回のリタイヤを喫すが、6度の入賞を記録し、選手権4位となった。
1985年は、マクラーレンのアラン・プロストとチャンピオン争いを繰り広げ、F1生活でのハイライトと言われる年となった。アルボレートは第9戦ドイツGPでシーズン2勝を挙げ、ランキングトップに立つが、第11戦オランダGPにてプロストが再逆転。その後アルボレートは、それまで11戦中9回の入賞と安定していた成績が突然乱れ、最終戦まで5戦連続ノーポイント(リタイヤ4回)。結局この終盤での失速が響き、ランキングは2位に留まった。
その後はチームが低迷期に入り、1986年は入賞4回、2位表彰台が1回。ランキングでもチームメイトのステファン・ヨハンソンを下回る8位に終わった。1987年も苦しいシーズンとなり、完走すれば表彰台・入賞というケースが多かったものの、マシンの熟成不足もあって中盤の8戦連続リタイヤを含む10度のリタイヤを喫した。終盤に2連勝したチームメイトゲルハルト・ベルガーの台頭により、徐々にエースドライバーの座から追いやられる格好となり、1988年を最後にナイジェル・マンセルと入れ替わる形で、フェラーリを離れた。
[編集] 中堅チームを渡り歩く
1989年には古巣のティレルに移籍、非力なマシンを駆りながらも同年のメキシコGPでは3位表彰台を射止めた。しかしその後、ティレルはタバコブランドのキャメルをスポンサーとして獲得、同じくタバコブランドであるマールボロのパーソナルスポンサーを受けていたアルボレートは、長い間自身をサポートしてくれたスポンサーへの義理を優先し、チームを去る決断を下すこととなった。
この年は、その後2戦欠場を経てラルースから参戦するが、完走は1回。4回のリタイヤを喫し、ラスト3戦は決勝に進むことが出来なかった。
[編集] フットワーク時代
その後は1990年からフットワークに在籍するが、2年間はチーム状況からテールエンダーの常連であり、予選通過もままならない年が続いた。
しかし1992年、チームは無限ホンダエンジンを搭載、僚友の鈴木亜久里がリタイアや予選落ちを繰り返す中、全16戦中14戦を完走し、4度の入賞。前年の最終戦から12戦連続の完走も達成した。あと一歩で入賞を逃すレースも多かったものの(7位完走が16戦中6回)、この年最も多くの周回数をこなしたF1ドライバーとなった。古舘伊知郎は1993年に「去年の周回数の帝王」と呼んでいた。
しかしシーズン終了後、チームは成績の良かったアルボレートのほうを放出。
[編集] ローラ、ミナルディ時代、引退
1993年はローラから参戦するが、予選通過に苦しむ戦闘力であり、予選落ち5回。終盤には、2戦を残しチームが撤退した。1994年はミナルディから参戦、第4戦モナコGPではサバイバルレースを生き残り、6位入賞を果たす。しかし、その後はやはりチーム状況から目だった活躍は出来ず、この年を持ってF1から姿を消すことになった。
[編集] 事故死
その後はインディやル・マンなどに活躍の場を移し、1997年ル・マン24時間耐久レースで優勝した。しかし、2001年、ドイツのラウジッツリンクにてル・マン24時間耐久レースのために行っていたテスト走行中にタイヤがバーストしクラッシュ、この事故が原因で死去した。
[編集] エピソード
[編集] フォルツァ・ミケーレ!
イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事」が、唯一最大の願いであり、そのファンの中でもミケーレはイタリア人ファンに愛された。これにはミケーレの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。その為、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシと呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れるが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ!(ミケーレ頑張れ!)」であったと言われている。
[編集] テクニック
F1カーがまだマニュアルトランスミッション機構を採用していた頃、アルボレートは「世界一のシフトチェンジテクニックを持つドライバー」といわれていた。F1ドライバーとして自身がもっとも脂がのっていた時期とフェラーリの低迷期が重なってしまい、成績そのものはさえなかったが、ドライビングテクニックを評価する声は多かった。
[編集] ヘルメットカラー
愛用のヘルメットは青地に黄色の一本輪、尊敬していたF1ドライバー、ロニー・ピーターソンが使っていたヘルメットと同じカラーリングであった。又、ピーターソンと同様にヒサシ付のヘルメットを使用していた時期もあった。
[編集] 関連項目
カテゴリ: イタリアのF1ドライバー | 1956年生 | 2001年没