アーキー・シアンフロッコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーキー・シアンフロッコ(Archi Cianfrocco, 1966年10月6日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州出身のプロ野球選手である。日本では1999年に西武ライオンズに所属した。ポジションは主に内野手(一塁手・三塁手)。193cm96kg。右投げ右打ち。西武時代の背番号は4。
目次 |
[編集] 経歴
オノンダガ短大、パーデュー大を経てモントリオール・エクスポズに入団。1992年にメジャー初昇格。翌年の途中にサンディエゴ・パドレスに移籍するが、この年は計12本塁打をマークした。1994年以降はユーティリティプレーヤーとしての側面が強くなり、1996年には投手と中堅手を除く全てのポジションを経験した。しかし打撃面で伸び悩み、打率1割そこそこに終わった1998年にはとうとうウェーバーにかけられてしまう。しかし、内野を中心にほとんどのポジションを守れる器用さに西武が目を付け、年俸8000万で西武に入団する。
この年まで2年間西武に在籍していたドミンゴ・マルティネスは打撃には優れていたが一塁しか守れない守備と鈍足が難点で、西武は2年ともリーグ優勝はしたが、日本シリーズでは指名打者制のない試合の際にマルティネスを使えず(左翼手で使うというプランもあったが、あまりの守備範囲の狭さに断念したという。なお、マルティネスは読売ジャイアンツに所属した際には左翼手も経験した)、攻撃力不足に陥ってともに敗退した。このことから監督の東尾修が「日本シリーズで勝てるチームに」と、マルティネスを解雇してまで守備力優先で獲得したのがシアンフロッコである。
しかし、1999年の開幕戦には「5番・三塁手」で出場したものの、球に当てることすらままならぬほどの打撃不振ですぐ7番に下げられた。加えて、「定評」があるはずの守備でもお粗末なプレーを連発し(15試合で5失策)、4月の終わりを待たずして2軍降格。6月末には早くも戦力外通告を受けた。
この年の西武は結局外国人野手の不振が響いてリーグ優勝を逃すが(4人の外国人の本塁打を合計しても、前年のマルティネス1人の本塁打よりも少ない)、シアンフロッコは4人の中で一番打てなかった。
[編集] 通算成績
- 15試合 打率.163(43打数7安打)2本塁打 5打点 2盗塁
[編集] 関連項目
以上の3人はシアンフロッコと同じ年に西武に在籍したが、ポールが後半戦でそこそこ活躍した以外はシアンフロッコ同様活躍できなかった。