イラク原子炉爆撃事件
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イラク原子炉爆撃事件(‐げんしろばくげきじけん)は、イスラエル空軍機がイラクのタムーズにあった原子力施設を「バビロン作戦」の作戦名で1981年6月7日に攻撃した武力行使事件である。これはイスラエルが「自衛」のために核兵器を持つ危険性があるとして、イラクに先制攻撃を行ったものである。その後、イラクのフセイン政権が核武装する意志があったことが湾岸戦争前後に判明するが、当時の国際社会からは非難された。
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[編集] イラクの核開発
産油国でありエネルギー資源に不安があるはずもないイラクが核開発を行った理由として、イラクは将来の石油資源枯渇を見据えて開発したものとしていた。しかし、実際にはイラクのフセイン政権は核武装を狙っていた。そのため1970年代から核技術の研究を独自に行なっていたが、原子炉を建設するほどの工業力がなかったため、フランスから核燃料と技術者の提供を受け7万キロワットの原子力発電所を建設していた。この原子炉(オシラク)は1982年7月に稼動予定であったが、この原子炉を軍事転用して核兵器に必要となる濃縮ウランを生産することも可能であった。そのためイスラエルはイラクが核開発することに異常なまでの危機感を持っていた。
[編集] イスラエルの暗躍
当初、イスラエルは外交手段によって事態を収拾しようとし、フランス政府に技術供与を取りやめるように要請するが、 当時のフランス・ジスカールデスタン大統領は平和利用のためだとして、断った。そのため、イスラエルの諜報機関モサドと軍の情報部であるアマンを使い、以下のような阻止工作をしたといわれている。
1979年4月、フランスのラ・セーヌ・シュルメール港の倉庫に格納されていたイラク向け原子炉格納容器が爆破された(犯行声明はフランスの過激派名義だった)。つぎに1980年6月には、イラクの核開発の責任者がフランスのホテルで撲殺され、8月には原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破され(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)、イラクの核開発に関係するフランスとイタリアの科学者宛にイラク差出の脅迫状が送付された。しかし、それらの妨害活動にくじけることなく原子力発電所の完成が近づいたため、イスラエルはあえて国際法に抵触する危険性がある武力攻撃を決意した。
[編集] バビロン作戦
1981年6月7日午後4時、シナイ半島東部にあるエツィオン空軍基地から飛び立ったイスラエル空軍のF-16戦闘機8機とF-15戦闘機6機がヨルダン及びサウジアラビアを領空侵犯したうえでイラク領内に侵入した。この飛行ルートは事前に対空砲とレーダーの位置をモサドの諜報員によって調べられたイラク防空網の死角であった。そして午後5時30分前に原子炉付近に到達し、イスラエル空軍機は原子炉を完全に破壊した。この攻撃により原子炉を警備していたイラク軍兵士10名とフランス人技術者1名が犠牲になった。イラクは当初どこから攻撃を受けたかわからなかったが、翌日イスラエル政府が空爆を認めたうえで、イスラエルの国民の安全確保のためにイラクが核武装する以前に先制攻撃したものであり、また原子炉稼動後に攻撃したのでは「死の灰」を広い範囲に降らせる危険があったため実行したと自己の行動を正当化した。
[編集] そのほか
この事件を題材にして作られたフィクションのスパイ小説としてはイギリスのA・J・クィネル による『スナップ・ショット』 (Snap Shot)が1982年に出版された。日本では1984年に出版されNHK-FMでラジオドラマとして放送された。