ウルリカ・エレオノーラ
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ウルリカ=エレオノーラ(Ulrika Eleonora, 1688年2月23日 - 1741年11月24日)は、プファルツ王朝最後(第4代)の君主であるスウェーデン女王(在位:1718年 - 1720年)。
戦死した兄王カール12世の後を受けて、空位を防ぐ為に王位に就いた。しかし大北方戦争はまだ続いていたものの、ロシア帝国との勝敗はすでに決まっていた。そしてスウェーデンの絶対王制も崩壊した。ロシアとの終戦締結の講和交渉はすでに1718年、カール12世の存命中から行なわれていた。当時、講和交渉の中心を担ったのは、カール12世の甥のホルシュタイン=ゴットルプ公カール=フリードリヒの一派、通称ホルシュタイン派である。しかしカール12世の死により、王妹ウルリカ=エレオノーラの夫ヘッセン公フリードリヒ(フレデリク)、通称ヘッセン派が実権を握った。これを受けてウルリカ=エレオノーラが女王に就く訳である。しかし元老院は絶対主義を否定。1719年から1720年に議会は新しく憲法を制定する。これは王権を著しく制限し、議会に権力を集中させるものだった。
ウルリカ=エレオノーラ女王はこの決定に不満を抱き、わずか2年で自ら退位するが、王位継承者はすでに夫フレデリクに決定していた。この取り決めも議会においてなされた。すなわち絶対王制の否定と新憲法の制定を条件にフレデリク1世が王位に就くのである。退位から21年後、王妃ウルリカ=エレオノーラは夫フレデリクに先立って死去した。2人の間に子はなかった。
ホルシュタイン派は親ロシア派で、ヘッセン派は親西欧派、事実上親プロイセン派だった。ホルシュタイン派が王位に就けばロシアの属国化は免れ得なかったが、ヘッセン派が王位に就いた結果はプロイセンの属国化であった。それから半世紀にわたり、議会では親ロシア派と親西欧派が抗争を続けてスウェーデンは弱体化し、その没落は明らかなものとなった。
ウルリカ=エレオノーラは、顔立ちが兄カール12世によく似ていた。その為、カール12世を知る人々は、ウルリカ=エレオノーラにカール12世の面影を見る思いだったと言われている。
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