カール12世 (スウェーデン王)
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カール12世(Karl XII、1682年6月17日 - 1718年11月30日)は、スウェーデンのバルト帝国の国王(在位:1697年 – 1718年)。
「北方のアレクサンドロス」という異名をとった。ロシア皇帝・ピョートル1世の好敵手。
15歳で王位につき、彼の若さに乗じようとした隣国を出し抜いて国外に進出して各地を転戦し、ザクセン公国・ポーランド王国、デンマーク=ノルウェー、およびロシア帝国の連合を打ち破る(大北方戦争)。1700年のナルヴァの戦いに勝利した後、ポーランドに侵入して盟友スタニスワフをポーランドの王位につける。また1706年までの戦闘を優位に進め、戦争初期はスウェーデンが圧倒した。
しかしロシアの地での補給は困難を極め、ロシアによる焦土作戦と冬将軍に、やがてスウェーデン軍は疲弊、弱体化する。1709年7月ポルタヴァの戦いに敗れて黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命し、1714年に帰国する。ノルウェー攻略の要となる要塞、フレデリックスハルドを攻囲中に流れ弾にあたって落命する。ただしこの死に関しては異論があり、1994年以降の調査では暗殺説の方が強い。
彼はドイツ・オランダ・イギリスの外交に大きな影響を与え、ロシアをはじめとする北方ヨーロッパの脅威であり続けたが、その死はスウェーデン王国の覇権の終焉を意味した。ヴォルテールの書いた『Histoire de CharlesXII,roi de Suéde,1731年』が代表的な伝記である。
カール・フォン・クラウゼヴィッツは、戦争論の中でフリードリヒ大王を評価する際に、カール12世をその比較対象に上げ、彼は偉大な天才と呼ぶに値しないと切り捨てた。しかしその一方で舞台がアジアであれば、アレクサンドロス大王の様な名声を得られただろうと見なし、ドイツ兵学的見地から、カール12世は、ナポレオン・ボナパルトの先駆者であるとも評価した。
彼は、十代にして熊殺しの異名を取っている。この事からも解るようにカール12世は、軍人であり政治家ではなかった。妥協を許さない剛直な王であった。
ちなみに日本では「北方の流星王」の異名でも知られており、人気のある通り名となっているが、海外ではこの名は見受けられない。過去に日本で出版された、カール12世関連の書籍に見られた異名が広まったもののようである。
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