プファルツ王朝
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プファルツ王朝は
- 17世紀から18世紀にかけてのスウェーデンの王朝。本項で説明。
- 15世紀初め頃の神聖ローマ帝国の王朝。ループレヒト1代のみで終わった。ループレヒトがプファルツ選帝侯であったため、王朝名としてはこの名称で呼ばれる。
プファルツ王朝は、17世紀から18世紀にかけてスウェーデンを支配した王朝である。スウェーデンを大国としたヴァーサ王朝から引き継ぎ、北方の大国を維持し、絶対君主制を開始したが、1700年代に始まった大北方戦争によって没落した。なお、プファルツ家は、ヴィッテルスバッハ家の傍流である。
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[編集] 概要
スウェーデンは、ヴァーサ朝の元で1523年にデンマークから独立し、デンマーク、ポーランド王国、ロシア帝国を撃破して強国の足掛かりを得、17世紀に始まった三十年戦争で大国の地位を確立した。しかし、偉大な名君であったグスタフ2世アドルフが1632年に戦死すると、スウェーデンは王位継承の問題が持ち上がった。王位は娘のクリスティーナが即位したが、まだ6歳であった。一方、ヴァーサ家は、ポーランドにも迎え入れられており、スウェーデン王位を要求し続けていた。
スウェーデン元老院は、こうしたポーランドの脅威に対抗するため、ヴァーサ家の女系の従兄であるプファルツ=クレーブルク公カール・グスタフを継承者とする事を決定した。クリスティーナ女王との婚約が条件に含まれていたが、親政を開始したクリスティーナは結婚を拒否し、1654年にカール・グスタフを後継に指名して退位した。
カール・グスタフはカール10世として即位したが、近隣諸国はプファルツ家の王位継承を認めなかった。特にポーランドのヴァーサ家はスウェーデンの王位を要求し、対ポーランド関係は険悪となった。 カール10世はスウェーデンの王位を確実なものとするために、ポーランドと戦争を開始した。北方戦争である。ここでカール10世は、1656年にワルシャワにおいてポーランド軍に大勝し、スウェーデンの王位を確実なものとした。1657年にはスウェーデンに宣戦布告したデンマークにも侵攻し、これを屈服させた。1658年、カール10世はロスキレ条約を締結。スウェーデンの領土は史上最大となり、カール10世は、バルト帝国の体現者となった。
しかしカール10世は1660年に病死。北方戦争は終結した。この年に即位したカール11世は5歳と幼く、摂政団がおかれる事となった。スウェーデンはバルト海を支配しており、対外諸国の脅威におかれる事はなかったものの、カール11世の時代は若干の国力の低下が見られる様になった。
1672年に親政を開始したカール11世だったが、国外へ向けては平和を維持しようと試みた。しかし、1675年から1679年にかけて、プロイセン、デンマークと戦端を開く事となり、スウェーデンは苦戦を強いられた。特にプロイセンとの戦いでは、ドイツにおけるスウェーデンの影響力の低下を余儀なくされるのである。そして海軍はプファルツ朝の元では更新されておらず、ようやく1680年代以降に再編を試みている。その後カール11世は絶対主義を標榜し、低下した国力の回復に邁進した。
なお、カール11世は1681年にドイツ諸侯で同族であるプファルツ=ツヴァイブリュッケン公を継承したが、フランス王国の影響下にあったため、カール11世は主権を取り戻すためファルツ継承戦争に参戦し、1697年のライスワイク条約でフランスより公領を奪回し、主権を回復した。また息子のカール12世もプファルツ=ツヴァイブリュッケン公を継承した。
1697年にカール11世が死去し、弱冠15歳のカール12世が即位すると、周辺諸国はスウェーデンに対抗し、失地奪還を目論む様になった。そして1700年に大北方戦争は開始された。この戦争はスウェーデンの国力を消耗し、衰退を招来した。 しかしスウェーデン王カール12世は軍事の天才であった。戦争の初期、デンマーク、ロシア、ポーランドを一蹴し、ポーランドに傀儡国家を建てた。北ドイツ、ポーランドをもその支配下に置いた。
しかし大北方戦争最大の戦闘、ポルタヴァの戦いで大敗し、さらにバルト海における海戦でも敗れ、バルト帝国は崩壊した。カール12世はオスマン帝国に逃れ、後にスウェーデンに戻るも衆寡敵せず、1718年のカール12世の死によってスウェーデンはあっけなく没落した。カール12世の死後、妹のウルリカ・エレオノーラが女王となったが、絶対王政の廃止と共に退位。ここにプファルツ王朝は終焉した。
その後ウルリカ・エレオノーラの王配であったヘッセン家のフレデリクが国王となり、ヘッセン王朝(1720年 - 1751年)が開始されたが、1721年のニスタット条約によって、ロシア帝国に北方の覇権を奪取され、スウェーデンの大国時代は終わりを告げた。
[編集] 主要年表
- 1654年 カール10世即位。プファルツ朝開始
- 1655年 北方戦争(ポーランド・スウェーデン戦争、カール・グスタフ戦争~1661年)
- 1656年 ワルシャワの戦い、ポーランドに大勝
- 1658年 デンマークに氷上侵攻、ロスキレ条約によって史上最大の領土獲得
- 1660年 カール10世死去。カール11世即位
- 1661年 北方戦争終結、バルト海の支配権確立
- 1666年 ルンド大学設置
- 1668年 スウェーデン中央銀行設立
- 1672年 カール11世親政開始
- 1675年 プロイセンと戦争(ネーデルラント継承戦争~1679年)、デンマークと戦争(スコーネ戦争~1679年)
- 1680年 デンマーク王妹ウルリカ・エレオノーラと結婚
- 1682年 カール生誕(後のカール12世)、絶対主義開始
- 1686年 ドロットニングホルム宮殿完成、後バロック様式からロココ様式に変遷
- 1689年 大同盟戦争(ファルツ継承戦争)に参戦
- 1696年 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国と同盟
- 1697年 カール12世、15歳で即位
- 1699年 ロシア、ポーランド、デンマーク、反スウェーデン同盟結成
- 1700年 大北方戦争(~1721年)
- 1704年 ポーランドに傀儡国家建国
- 1706年 北ドイツ、ポーランドを支配下に置く
- 1709年 ポルタヴァの戦い、ロシアに大敗、カール12世、オスマン帝国に亡命
- 1712年 ハンゲの海戦、ロシアのバルト海の制海権を奪われる
- 1715年 カール12世、スウェーデンに帰還
- 1716年 ノルウェー侵攻(~1718年)
- 1718年 カール12世、戦没。王妹ウルリカ・エレオノーラ即位
- 1720年 ウルリカ・エレオノーラ退位、ヘッセン朝開始。ストックホルム条約
- 1721年 ニスタット条約
[編集] スウェーデン・プファルツ王朝歴代国王
- カール10世(生没年1622年~1660年、在位1654年~1660年)
- カール11世(生没年1654年~1697年、在位1660年~1697年、1672年親政)
- カール12世(生没年1682年~1718年、在位1697年~1718年)
- ウルリカ・エレオノーラ(生没年1688年~1741年、在位1718年~1720年)
[編集] 関連項目
カテゴリ: スウェーデンの歴史 | スウェーデンの君主 | 北欧史 | ヴィッテルスバッハ家