エドヴァルド・ムンク
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エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀~20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。1000ノルウェー・クローネの紙幣の肖像にも描かれている。生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。表現主義的な作風の画家として知られる。
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[編集] 生涯
1863年、ノルウェーのローテンという村に生まれ、その後一家はエドヴァルドの生まれた翌年にはクリスチャニア(オスロの旧称)へ移住した。 1868年、5歳の時に母が結核のため30歳の若さで死に、姉と弟も若くして死ぬ。エドヴァルド自身も虚弱な子供で、生き延びられないのではと心配されていたという。こうして身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893)、『病める子』(1896)といった彼の最初期の諸作品では直接のモチーフになっている。
1881年、画学校(のちの王立美術工芸学校)に入学。クリスチャン・クローグとJulius Middelthunに師事。 1884年頃から「クリスチャニア・ボヘミアン」という、当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる。 1886年10月、クリスチャニア秋季展に『病める子』を発表すると、この絵は物議を醸し出し、罵倒と思えるほど批判された。 絵を印象づける為、あえて素描風に仕上げるスタイルをムンクは無意識的にとっていたのだが、この彼のスタイルが理解されなかったのである。
1885年に数週間パリに滞在。1889年にはノルウェー政府の奨学金を得て正式にフランス留学し、レオン・ボナのアトリエに学んだ。パリではゴーギャン、ファン・ゴッホなどのポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けた。パリに着いた翌月に父が死去。この頃から「フリーズ・オブ・ライフ」(生のフリーズ)の構想を抱き始める。
1892年、ベルリンに移り、この地で『叫び』などの一連の絵を描いた。彼は、ファン・ゴッホとともに、この後、ドイツを中心に起こるドイツ表現主義の運動に直接的な影響を与えた1人と考えられている。1892年、ベルリン芸術家協会で開いた展覧会はオープンから数日間で保守的な協会側から中止を要求され、スキャンダルとなった。
ムンクは1890年代は、ベルリン、コペンハーゲン、パリなどヨーロッパ各地を転々とし、毎年夏は故国ノルウェーのオースゴードストランの海岸で過ごすのを常としていた。このオースゴードストランの海岸風景は、多くの絵の背景に現れる。
ムンクは何人かの女性と交際したが、生涯独身を通した。1902年の夏、オースゴードストランで過ごしていたムンクは、数年ぶりで再会した、以前の恋人のトゥラ・ラールセンとトラブルになり、有名な発砲事件を起こす。ピストルを撃ったのが2人のうちのどちらであったかを含め、事の真相は不明だが、この事件でムンクは左手中指の関節の一部を失う怪我をした。
この頃からムンクは精神が不安定になってアルコールに溺れるようになり、1908年から1909年にかけて、デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活を送った。
1909年にノルウェーに戻り、以後の後半生はノルウェーで過ごした。1909年からはクラーゲルー、1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに定住した。このノルウェー時代は、心身の健康が回復し、画面が若干明るくなったものの、作品のテーマは引き続いて人間の存在に関わる孤独や不安などであった。有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。
[編集] 「生のフリーズ」と『叫び』
おもに1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を、ムンクは「フリーズ・オブ・ライフ」と称し、連作と位置付けている。「フリーズ」とは、西洋の古典様式建築の柱列の上方にある横長の帯状装飾部分のことで、ここでは「シリーズ」に近い意味で使われている。これらの作品に共通するテーマは「愛」「死」そして愛と死がもたらす「不安」である。
ムンクの代名詞ともなっている『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物など、独創的で秀逸な作品である。ただ、あまりにも広く紹介されており、構図をまねたパロディなど、戯画的な扱いをされがちでもある。 ムンクは、ある日、フィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」と言っており、その経験を絵画化したものである。 自己の個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したことがムンクが高く評価されるゆえんである。
アメリカの美術史家であるロバート・ゼンブラムは、パリの人類史博物館に展示されていたペルーのミイラが『叫び』中央の人物のモデルであるという説を唱えた。実際このミイラは丸く落ちくぼんだ目、開いた口、頬に当てられた手、痩せた体など、『叫び』の人物と共通点が多い。
『叫び』は4点制作され、ムンク美術館に2点所蔵されているほか、オスロ国立美術館所蔵と個人所蔵のものが1点ずつあることが知られている。このうちオスロのムンク美術館に所蔵されていた1点が、『マドンナ』とともに2004年8月に盗み出されたが、2点とも2006年8月31日にオスロ市内で発見された。『叫び』は、1994年2月にもオスロ国立美術館所蔵の1点が盗難に遭い、同年5月の犯人逮捕時に発見されている。
[編集] 代表作
- 叫び (1893)(オスロ、ムンク美術館)→2004年8月22日、武装した覆面の2人組により略奪されたが2年後にオスロ市内で発見。
- マドンナ (1893-95) (ムンク美術館)→同上
- 思春期 (1894)(オスロ国立美術館)
[編集] その他
[編集] 外部リンク
- ムンク美術館 - ムンクの作品(画像、解説あり)(英語)
- Gallery Munch - Løten
- Art Gallery - Edvard Munch