エリック・ビショフ
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エリック・ビショフ(Eric Bischoff、1957年5月27日 - )は、アメリカのプロレスプロモーター、プロレスラーである。但し試合はストーリーに応じてたまに行う程度である。2005年12月まで、WWEのTV番組ロウにおいてゼネラルマネージャー(GM)を務めていた。何か企んでそうな笑顔が特徴である。
空手、拳法の有段者ということになっているが、もちろんギミックである。
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[編集] 経歴
[編集] AWA
1989年にAWAのリング・アナウンサーを始めたのがプロレス業界での最初の仕事である。ブッカーも務めるようになったが、1991年にAWAが活動を終了。WWE(当時WWF)への入団を希望したが採用されず、WCWへリングアナとして再就職。この経緯が後の彼の大きなモチベーションとなる。
[編集] WCW
WCWでもリングアナからプロモーター、ブッカーへと仕事を移していき、1993年にはWCWの副社長まで上り詰めた。ビショフが現場の責任者となってストーリー構成の中心者になってからは、1995年にWWFのロウの裏番組としてマンデー・ナイトロを開始し、WWFに対して視聴率戦争(マンデーナイト・ウォー)を仕掛ける。またWWF、ECWから多額の移籍金で数多くのスーパースターを引き抜くようになる。
スーパースターの引き抜き、自らも加入したnWoの大ブレイクなどでWWFに対し人気優位に立ち、一時はWWFを倒産寸前まで追い詰めるもベテラン中心のストーリーで若手が育たず、またストーリーもマンネリ化が目立った。その間WWFはストーン・コールド・スティーブ・オースチンとビンス・マクマホンの抗争ストーリーなどで巻き返し、WCW側が窮地に立つ。ビショフは1999年にWCWを解雇されるも半年後に復帰。しかし2001年にはWCWが崩壊。
WCW崩壊後はTV番組のプロデューサーを務めたり、またインディ団体に関わるなどした。
[編集] WWE
2002年に電撃的にロウのGMとしてWWEと契約、ファン・関係者を驚愕させた。過去のWCWとWWEとのTV番組抗争、更にレスラーを引き抜いては十分に使わないで解雇するといった印象があったこともあり、GM就任以来一貫して強力なヒールを務めている。特にECWファンからは嫌われており、2005年に開催されたPPV、ECW ワン・ナイト・スタンドに反ECW義勇軍を率いて登場した際も、観客から多くのブーイングを浴びた。
ヒールらしく独裁的なGM活動を行っている。2002年9月2日に世界ヘビー級王座をトリプルHに授与する形で創設したり、同年10月20日の統一戦でインターコンチネンタル王座を消滅(後に復活する)させたりしていた。また、WWEで最も過酷なデスマッチ形式「エリミネーション・チェンバー・マッチ」を考案したのも彼である。
2004年2月に初来日し、2005年2月4日に開催された、さいたま大会ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOURにも参加。
2005年10月から始まったロウとスマックダウンとの抗争にて、スマックダウン側にも登場している。サバイバー・シリーズでの敗戦後、巻き返しをビンスに誓うも同年12月にGMを解任された。2006年秋、自伝「Controversy Creates Cash」(物議が金を生む)を出版、自書のプロモーションも兼ねてWWEのテレビ画面に復帰した。
[編集] エピソード、その他
- 現場においてはハルク・ホーガン、ケビン・ナッシュ、DDPなど自分と仲のいい選手をプッシュし、また彼等が望めば簡単に高額の契約金を払ったことから「ATMエリック」と陰口を言われた。一方でリック・フレアーの派閥とは非常に中が悪かった。
- かつてはビル・ゴールドバーグと共に絶対にWWEには登場しないであろう人物の筆頭に挙げられていた。ビンス・マクマホンは宿敵であった彼を雇った理由を「自分の部下として働かせるなんて最高の復讐だ」と語っている。
- 夫人のローリー・ビショフは「全米で最もセクシーな女性」の一人に選ばれたほどの美人である。
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