カフェー
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カフェーは次のような意味で使われる。
- パリの風物詩になっている飲食店。街路に向け開放的な造りになっている。
- 喫茶店の意味。
- 風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶、社交喫茶という言い方もあった。
1・2の意味では伸ばさずに「カフェ」と言うことが多く、3は「カフェ」「カフェー」が両方使われるが、語尾を延ばした方が感じが出る。以下、3の意味を説明する(1についてはカフェを参照)。
日本におけるカフェーの始まりは、1911年(明治44年)3月、銀座日吉町に開業したカフェプランタンと言われる。経営者は洋画家平岡権八郎・松山省三で、命名は小山内薫による。これはパリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場とすべく始まったものである。 しかし女給目当ての客を対象とする店が増え、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えば(バー・クラブの)ホステスの役割を果たすようになる。そのため、女給の接待を売りにするカフェー(特殊喫茶)に対して、コーヒーを売りにする店はのちに(戦後?)「純喫茶」と名乗るようになった。
昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在として、カフェーは小説などの舞台にもなった。菊池寛のカフェー通いは、当時広津和郎の小説『女給』のモデルにもなり有名だった。銀座のカフェタイガー、カフェライオンなどが大型カフェーであった。ちなみに当時の女給は多くの場合無給であり、もっぱら客が支払うチップを頼りにしていた。
第2次世界大戦終戦後、いわゆる赤線地帯が発生し、かつての遊郭などがカフェー名目で営業を続けるようになったため、本来のカフェーの方はバー、クラブなどと称するようになった。 法律用語の「カフェー」は今も残っており、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第1項第2号には「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」という規定がある。
戦前のカフェーを描いたものに、永井荷風「つゆのあとさき」、広津和郎「女給」、松崎天民「銀座」、安藤更正「銀座細見」などがある。
大正後期から昭和初期にかけてカフェーをテーマにして流行した歌をカフェー歌謡という。『演歌に生きた男たち』(今西英造・著)『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』(菊池清麿・著)に詳細に記されている。