ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル
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ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル(Gaius Claudius Marcellus Minor、紀元前88年 - 紀元前40年)は共和政ローマの元老院議員。キケロの友人でもあった。
クラウディウス氏族の出自で、ポエニ戦争で活躍したマルクス・クラウディウス・マルケッルスの直系の子孫でもある。従兄弟に同名のマルケッルス・マヨルがおり、区別して名前の語尾に「ミノル(小)」をつけて呼ぶ。妻はユリウス・カエサルの甥のオクタウィアヌスの姉である小オクタウィア。
[編集] 略歴
マルケッルスの行動はカエサルとは政治的に対立していた。
紀元前54年、カエサルの娘でポンペイウスと結婚していたユリアが死ぬと、カエサルは新たな血縁関係を築こうとマルケッルスの妻オクタウィアと離縁してポンペイウスと結婚させようとするが、失敗に終わる。
紀元前50年、コンスルとなった彼は強大になりつつあったカエサルの脅威を取り除くために、10年間の赴任と当初なっていたカエサルのプロコンスルの権限を2年早めに召還を試みる。イタリアへの帰還の際には非武装が基本であったから、これでカエサルの脅威を削ぎ、共和政ローマを存続できるはずであった。しかし試みは失敗。次にカエサルのガリア総督の罷免を呼び掛けるが、これもうまくはいかなかった。そしてカエサルが出した2期目のコンスルの不在立候補を、コンスルに立候補するにはローマで立たねばならないと無効とする。しかしカエサルはローマ軍団を解散させずにルビコン川を越えてイタリアに侵攻、しかしマルケッルスはカエサルに対して武装抵抗はしなかった。
紀元前47年には彼はカエサルと兄マルクス、大マルケッルスとカエサルの間を取りなして、国外に退去した。紀元前40年に死去、妻オクタウィアはその数カ月後にマルクス・アントニウスと結婚した。
[編集] 家族構成
マルケッルスの妻は小オクタウィアであり、後にローマ皇帝となるアウグストゥスの姉になる。オクタウィアとの結婚で2人の女子と1人の男子をもうけ、女子は両名ともクラウディア・マルケッラと、男子はマルクス・クラウディウス・マルケッルスと名付けられ、子供達は皇族として育てられた。このように独裁権力を目指すカエサルの政敵であったのにも関わらずマルケッルスの子孫はカエサルの築いたユリウス・クラウディウス朝の皇族となる。