ガレー船時代の海戦戦術
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ガレー船時代の海戦戦術(ガレーせんじだいのかいせんせんじゅつ、英:naval tactics in the age of galleys)は、古代からガレー船が帆船に置き換わった時期1600年代初期までの間の海戦の戦術である。
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[編集] ガレー船時代の武器
古代から中世の16世紀まで、海戦の武器は次のようなものだった。
- 船そのものが敵船を打ち壊す大槌の代用として用いられた。そのために船首にはしばしばこの効果を増すための衝角が装備されていた。
- 船員や戦闘員の刀槍に類する白兵戦用の利器。
- 飛び道具、すなわち舷墻に固定された石弓の矢、弓矢、帆桁や柱から落とされる重石、敵船に火を付ける様々な手段:例えば火矢、ギリシア火薬、あるいは管を使って吹き出す火弾(当初cannae後にcannon)。
ギリシア火薬については、液体状の焼夷剤とも伝えられるが、その性状が明らかでない。また、中世ビザンティン帝国は火薬の使い方を習得していたと信じられている。14世紀に大砲が導入されたあとでも、この時代の武器は大変貧弱であったことは事実である。
[編集] 初期の海戦戦術
初期の海戦はすべて接近戦であり、船をぶつけ合ったり乗り移ったりして戦われた。ただし、船をぶつける(衝角戦術)という手段は、オールで漕いで進む船でのみ可能であった。帆船はよほど追い風をうけているのでなければ、ぶつけるということができなかった。軽風では効果がないだろうし、風下からなど望むべくもなかった。それ故に艦隊は接近戦に持ち込むしかなかったが、戦闘用の船には二つの条件が必要だった。
- 船が小さく軽いこと、つまり船員がオールで操れること
- 船に多くの船員を乗せられること、漕ぎ手、甲板員、そして戦闘員
古代から中世にかけては、三段櫂船や他の軍艦にも帆が用いられた。これは通常の移動であれば、重労働である漕ぎ手の動きを助けるためである。漕ぎ手は戦闘中は下層におり、安全な港が近くにあるときは戦闘前に上陸していた。
この二つの条件は、紀元前5世紀のアテネ提督フォルミオにも、10世紀のノルウェー王オラフ・トリガーソンにも、また1571年のレパントの海戦における神聖同盟、オスマン帝国両軍指揮官にも同様にあてはまった。それぞれのオールと帆の使い方が多少違っただけである。
地中海を出ると、古代のフェニキア人やギリシア人、ローマ人らの操った船の系譜を引く長さ120フィート幅20フィートの細長形で軽いガレー船では船旅が難しかった。しかし、バイキング時代に進歩を遂げたノルウェーのようなスカンジナビアの船は船幅は船長の3分の1であり、荒海を乗り切れたばかりでなく、軽くて喫水が浅いために漕ぐのも容易なら、海岸に乗り上げるのも容易だった。
中世の船の中にはかなりの大きさのものがあるが、これらは例外であり、多くは不格好で軍艦と言うよりも輸送船であった。軍艦が中庸な大きさで船員も多かったとしたら、長めの航海に就いたり、文字通りの意味で海上封鎖に使うものであり、古代や中世の提督達の力を超えたものだった。貿易に使う船は追い風を受ければ速度6ノット程度が期待できた。しかし、戦闘用艦隊は、長い航海にも十分な船員を確保するために水や食料を運んでいくことができなかった。ガレー船を使っている限り、つまり18世紀半ばまでは、軍艦はできる限り港に繋がれ、漕ぎ手のためのテントを甲板の上に張っておくのが常であった。艦隊は補給を受けるために海岸から離れることはなかった。
海岸には食料を蓄えたり、船員が休息を取る基地がいつも確保されていた。このために大がかりな作戦行動には準備に時間がかかった。さらに敵が待ち構えているような場合や港を警戒している場合は、海岸の数点を抑えて、軍艦は引き上げられた。シラクサのコリント同盟がアテネでやれたことは、そのような地点確保に過ぎなかった。古代ローマはリリベウムで同じことをやったし、ロードス島のハンニバルは船が海に降ろされて阻止に来る前に海上封鎖を完成させた。ノルウェー人は船を海岸に引き上げ、柵で囲った上で内陸に進軍した。ホメロスの時代のギリシアも同様で他のことはしていない。1285年のルッギエロ・ディ・ローリアは、フランス軍が見え通り過ぎるまで、ホルミガスの海岸にガレー船を止めて待った。1350年、イギリス王エドワード3世はスペイン艦隊が視界に入るまでウィンチェルシーに止まった。レパントの海戦での神聖同盟軍は最後の瞬間までドラゴネラ近くに碇を降ろしていた。
[編集] 単横陣
この記事の冒頭に上げたように、海戦の戦いは接近戦であり、船をぶつけ、刀で斬り合い、石弓や弓で矢を交わし、鉄や鉛の塊を投げ合い、火矢を投げ合うものだった。このために艦隊の陣形や戦術は、戦闘に参加する者すべてに平等に課されるものだった。戦闘隊形は単横陣、つまり船がすべて船首を敵に向けて横に並び、全勢力が同時に戦闘にかかるものだった。船首をぶつけるのと同様に敵船に乗り込むのも船首からだった。もし船が船腹をくっつけあっていた場合は、オールが邪魔になってやりようがなかった。
[編集] 衝角戦術
船首の衝角あるいは乗り移りの程度は、それぞれ漕ぎ手の器量に依存するところがある。初期ペロポネソス戦争の時の高度に訓練されたアテネ人は、主に衝角を用いた。彼らは敵の戦列に突進し、敵船の片方の船腹にあるオールを削ぎ落とした。このやり方がうまくゆくと、戦列艦のマストを倒したのと同じような効果を生んだ。その結果攻撃した船が旋回し、機能の落ちた敵船の船尾に衝角で攻撃することができる。しかし衝角による攻撃は、その船が堅牢に造られていなければ大変危険なことでもあった。衝撃で衝角が壊れることもあった。アテネ人はこの危険性を承知しており、その三段櫂船の船首を強固にし、より重く作られていたペルシアの船に立ち向かった結果、ペルシア船の動きを封じた。
実際に衝角による攻撃が成功するかは技術と幸運の組み合わせによっており、多くの古代の海戦では補助的な役割を演じた。ローマ人はカルタゴの衝角戦術に対抗するために「コルバ(corva)」を発明した。これは敵船の船首に引っかける鉤針をつけたはしごであり、敵船に乗り移る道を作った。しかしこの武器はあまり実践に用いられていない。なぜならば航海中はコルバが邪魔になり、海が荒れた場合は常に艦隊を自殺行に追いやったからである。
[編集] 大砲の導入
14世紀に大砲が導入されると、大砲は主にガレー船の船首に据え付けられた。船首が敵に接するまでは大砲を撃つことが悪いやり方だと考えられたからである。衝角の衝突より前に発砲すると、彼らもすぐに砲撃される危険性があった。当時の大砲は装填に時間が掛かった。士官好みのやり方は、最後の瞬間に発砲し、乗り移るための道を開くことであった。
中世で弱い艦隊の船は僚船をつなぎ合わせて、乗り移りに対する防御策とした。オールとマストを用いた障壁もあった。1000年、スウォルダーの戦いでのノルウェー王オラフ・トリガーソンや、1340年スライの戦いでのフランス軍がこの防御法を採用したが、側面からの攻撃に弱いという欠点をさらけ出してしまった。衝角による衝撃に対応するために、中世の船は「ひげ面(bearded)」すなわち、鉄帯で船首の周りを強固に補強した。
古代に広く知られた海戦の戦術はビザンティン帝国からイタリアへ、さらに西洋に広められた。