ギヨーム8世 (アキテーヌ公)
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ギヨーム8世(フランス語:Guillaume VIII, 1025年 - 1086年9月25日)は、アキテーヌ公およびポワティエ伯(ポワティエ伯としてはギヨーム6世, 在位:1058年 - 1086年)。はじめはガスコーニュ公(在位:1052年 - 1058年)で、アキテーヌ公となる前はギー=ジョフロワ(Guy-Geoffroi)と名乗っていた。アキテーヌ公ギヨーム5世(偉大公)とその3番目の妃であったブルゴーニュ公オテ=ギヨームの娘アニェスの末息子。兄にギヨーム6世とウードおよびギヨーム7世が、義兄に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がいる。
ギヨーム5世の2番目の妃はガスコーニュ公の娘で、このためガスコーニュはアキテーヌの統治下におかれていた。ギー=ジョフロワは兄ギヨーム7世の在位中にガスコーニュ公となり、1058年にギヨーム7世が嗣子なくして死去したことを受けてアキテーヌ公ギヨーム8世となった。
ギヨーム8世は1064年にバルバストロ(ウエスカ県)を包囲されたアラゴン王ラミロ1世を援けるための連合軍の指導者の一人だった。これはローマ教皇アレクサンデル2世の提唱によるもので、後の十字軍の先駆となった。アラゴンと連合軍は都市を征服し、住民を殺害して多くの戦利品を獲得した。しかしアラゴンは翌年にはこの都市を奪還された。ギヨーム8世の二人の娘がともにイベリア半島の王に嫁いでいることから明らかなように、当時スペインのキリスト教勢力との同盟関係は重要視されていた。
ギヨーム8世は3度結婚し、少なくとも5人の子供が知られている。最初の妃はペリゴール伯 Aldabert II の娘ガルサンド( Garsende of Périgord )であったが子供は生まれず、彼女は後に離婚して尼となった。2人目の妃 Matoeda との間にはカスティーリャ王アルフォンソ6世妃となったアニェスが生まれたが、ギヨーム8世は不妊を理由に1068年5月に離婚した。3人目の妃は従姉妹のヒルデガルド(ブルゴーニュ公ロベール1世の娘)で、彼女との間にアラゴン王ペドロ1世妃となったアニェスや公位を嗣いだギヨームをもうけた。しかしこの結婚が正当であるという承認を得るために、ギヨーム8世はローマの教皇の許へ赴かなければならなかった。
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