グンナー・ニルソン
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1976 - 1977 |
所属チーム | ロータス |
出走回数 | 31 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 31 |
表彰台(3位以内)回数 | 4 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 1976年南アフリカGP |
初勝利 | 1977年ベルギーGP |
最終勝利 | 1977年ベルギーGP |
最終戦 | 1977年日本GP |
グンナー・ニルソン(Gunner Nilsson 1948年11月29日 - 1978年10月20日)はスウェーデン出身の元F1レーシングドライバー。
目次 |
[編集] 経歴
FV等に参戦し、1975年にはイギリスF3チャンピオンとなる。翌1976年の第2戦南アフリカGPより、マリオ・アンドレッティのNo2ドライバーとしてチーム・ロータスからF1デビュー。丁度チームの低迷期だったが、第4戦スペインGPにて3位に入り、初入賞で表彰台に立つ。また第11戦オーストリアGPでも3位を獲得している。しかしマシントラブルが多く、15戦9回のリタイヤを喫した。
翌1977年もロータスから参戦する。この年、チームは元祖ウイング・カーとして知られるロータス78を開発し、全コンストラクター中最多となる5勝をマーク。このうち、ゾルダー・サーキットで行われた第7戦ベルギーGPでは、雨天の中ニルソンがニキ・ラウダに競り勝ち、初優勝を挙げている。
しかしシーズン末、ニルソンは自分の体が癌に蝕まれていることを知ることになる。それでも最終戦までシーズンを戦い抜き、翌1978年に向けてアロウズと契約を結ぶ。
しかし症状は悪化し、闘病生活に入ったニルソンは参戦断念を余儀なくされた。その後、痛み止めを拒否し、自身の資金で癌撲滅基金を創設するなど、癌撲滅キャンペーンを展開。病気の体をおしてサーキットにも現れていたが、シーズン終了直後の10月20日、29歳で死去。
[編集] 死後
死後、ニルソンを忍ぶチャリティーレースやイベントが複数行われ、その収益金がニルソンが設立した募金に寄付された。イベントの中には、レースファンだったジョージ・ハリスンが参加したものもある。
[編集] 補足
最後のレースとなった1977年日本GPでは、通常のJPSブラックカラーとは異なる、インペリアルの赤いロータスのマシンをドライブした。このカラーリングは、1戦のみの出走ということもあり、一部のマニアの間では人気が高く、ミニカーなども多く販売されている。