コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)
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コンラート3世(1093年 - 1152年2月15日)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ帝国初代君主(ドイツ王在位:1138年 - 1152年、皇帝にはなれなかった)。
1137年、神聖ローマ皇帝ロタール3世が死去した。ロタールには継嗣が無かったため、ズップリンゲンブルク朝は1代限りで断絶してしまった。選帝侯たちは次の皇帝を選出するため、コーブレンツにて1138年3月7日、皇帝の選挙を行なったのである。先帝ロタール3世は自分の後継者にヴェルフェン家のハインリヒ獅子公を望んでいたが、投票ではホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が最多票を得て、新たな神聖ローマ帝国の君主として選出されたのである。選帝侯たちは強力な皇帝の出現を望んでいなかったため、当時としては弱小勢力に過ぎなかったコンラート3世が新たな君主として選ばれたのである。しかし、ローマ教皇から戴冠式を受けられなかったので、正式な皇帝に即位することなく終わっている。
1147年、ローマ教皇の命を受けて第2回十字軍に参加し、ダマスカスを包囲したが、イスラム軍との戦いに敗れて命からがら撤退している。また、ハインリヒ獅子公とも皇帝の地位をめぐって争うなど、その治世は多難を極めた。しかしコンラート3世は皇帝権力の強化、ホーエンシュタウフェン家の領土拡大に成功を収め、巧みな外交戦略をもってドイツ諸侯と提携を図るなどしている。
1152年、病に倒れて死を悟ったコンラート3世は、甥のフリードリヒ1世(バルバロッサ)を後継者として指名し、間もなく世を去った。コンラート3世には息子ハインリヒとフリードリヒがいたが、甥のフリードリヒ1世の能力を高く評価していたため、あえて後継者として指名したのだった。
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