サルタク
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サルタク(Sartaq, ?-1257年)は、ジョチ・ウルスの第3代宗主である(在位:1256年-1257年)。彼はバトゥの長男であり、母はボラクチン・ハトゥンであったという。子息はいなかったようだが末弟のウラクチが彼の息子であるという伝承もある。ペルシア語表記では سرتاقSartāq と綴られる。
1256年春にモンゴル皇帝モンケが第2回のクリルタイをオルメクトの地で開催したとき、サルタクはジョチ・ウルスの代表として派遣された。しかし、開催地に到着する目前でバトゥの訃報が届いたため、サルタクはモンケの勅命によってバトゥの後継者に任命された。多大な恩賜を受けてジョチ・ウルスへ帰還を許されたが、彼もまた翌年の1257年にその旅中で没した。モンケは彼のハトゥンたちや諸子に使者を送って慰め、改めて彼の末弟ないし息子であるウラクチにジョチ・ウルスを継がせた。しかし、そのウラクチも数カ月後に夭折してしまったため、バトゥの次弟であったベルケがジョチ・ウルスのハン位を継ぐこととなる。
彼の生涯はペルシア語や漢語資料にはほとんど記載がないため不詳である部分が多いが、幸いルイ9世より派遣されたルブルクのギョーム修道士が、バトゥ、モンケの宮廷への旅中に先立ち彼のオルドを訪問しているため、その若干が知られている。
ヨーロッパや中東では、サルタクがキリスト教を信奉しているという噂があり、1253年にこの確認と十字軍への支援を求めてルイ9世はルブルクのギヨームを派遣しており、さらに翌1254年8月29日にはローマ教皇インノケンティウス4世が、サルタクが洗礼を受けたと言う知らせを聞いて、彼の許に書簡を送って祝意を表した。
ルブルクのギヨームによれば、サルタクのオルドはドン河中流域にありヴォルガ河から三日行程の距離にあったという。そこでサルタクは6人の夫人がおり、彼と一緒にいた長子にもまた2、3人の夫人がついていたといい、そのオルドも豪奢であったと報告している。ジュヴァイニーによればサルタクの子供がウラクチであったと述べているが、『集史』ではサルタクには子息がいなかったと述べており、資料間で食い違いが生じている。あるいはこの「長子」はそのウラクチである可能性もあるが、詳細は不明である。
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カテゴリ: モンゴル帝国 | ジョチ・ウルスの君主 | 中央ユーラシア史 | 1257年没